権力者は、自分たちの名誉ばかり気にかけていて、人々にたいする温かい目がないのが、酒飲んでワァーという赤坂自民亭のあり方にあらわれているようだ(うがった見かたではあるかもしれない)

 自由民主党は、赤坂自民亭ということで、酒食をともにする会合をしていた。気象庁が西日本に豪雨のおそれがあるとして警戒を呼びかけていたさなかのことだった。それにたいして非難が投げかけられているのがある。

 赤坂自民亭をしていたのは、豪雨の警戒が呼びかけられていたさなかのことだったので、それを行なったことの適否が問題となっている。それとともに、赤坂自民亭は、それと関わることがらや、それ以外のことを象徴してもいそうだ。

 その中には、社会的良心との関わりがあげられる。これは儒教でいわれる仁になぞらえられるものである。赤坂自民亭には、首相をはじめとする政権与党の大臣などが出ていたが、それらの人たちに、十分に社会的良心があったのかといえば、欠けていたのだと見なすことができる。なぜ欠けているのかといえば、新自由主義であるせいなのが一つにはあるのではないだろうか。

 新自由主義では、個人が失敗したとしても、それを自己責任として片づけてしまいやすい。失敗してつまずいた人への温かみはそれほど持たれない。そのため、社会的良心が欠けてしまいやすい。失敗してつまずいている人(たち)が苦しんでいる中で、それはそれとして割り切って、(重要な役職についている)与党の政治家は平気で楽しむことができる。

 失敗してつまずいている人たちにたいして、いついかなるさいにも温かい目を注いで、自分たちはまったく楽しむべきではない、というのは行きすぎかもしれない。それにくわえて、同情を注ぐということであれば、偽善につながりかねないのがある。精神論になってしまうところもある。

 行きすぎや偽善や精神論になりかねないのはあるが、そのいっぽうで、いま社会の中に足りていないのは、社会的良心であるのはたしかだろう。それが与党の政治家の、とりわけ重要な役職についている人たちに十分に足りているとは見なしづらい。社会的良心を、権力者である上の者がもっていないために、社会の中がひどくぎすぎすしてしまっている。息ぐるしさがある。生きてゆきづらさがある。しわ寄せは社会的な弱者に不当に行ってしまっている。社会の中で、尊厳が不平等に分配されているのである。