客体である物(対象)には決まったよさはないとすることができる(受けとる人しだいだとすることができる)

 物には決まったよさはない。中国の詩人の白楽天はそう言っているという。決まったよさがあるのではなくて、見る人によってちがってくる。

 西洋では、哲学者のスピノザは同じようなことを言っているそうだ。スピノザはエチカにおいて、あるものを受けとったときにおきる正や負の感情は、そのものには必ずしも原因はないのだとしている。受けとる人によるものである。

 よさや悪さというのは価値または負価値である。価値や負価値は、そのものにあるということは必ずしもできるものではない。たとえば日本という国があるとして、日本によさまたは悪さがあるとはいちがいには言うことはできない。人それぞれで受けとり方がちがってくるものである。

 客体(オブジェクト)である対象と、それを受けとる主体(サブジェクト)との関わりによって決まってくる。どちらが先だっているのかというと、客体である対象のほうではなくて、主体のほうだと言えるそうである。主体のほうが先だっていることにより、詩人の白楽天がいうように、物には決まったよさはない、といえることになる。

 主体よりも先だっているのが構造であるとする見かたが、構造論からするとなりたつ。主体を実体とするのではない。構造による効果であり、構造の一部分として主体があるとすることができる。構造というのはたとえば社会というのがある。思想家のカール・マルクスは、人間の意識はその社会によって規定される、と述べているという。