物をつくったり、実践をしたり、行動をしたりする人が、えらいのだとは必ずしも言うことはできない(中にはえらい人はいるのはたしかだけど、一般化することはできづらい)

 手を動かせ。物をつくれ。批評家になるな。ポジション(地位)をとったあとに批評をしろ。大学の准教授の人は、このようなことを言っているのだということが、新聞の記事に載っていた。のうがきをたれるよりも、手を動かして物をつくったほうがよいということだろう。批評家になるよりも、きちんとポジション(地位)を勝ち得るようにして、そのうえで批評をするのがよい。

 この大学の准教授の人が言っていることは、それなりに正しいとは思うのだけど、これとは逆のことを個人としてはよしとしてみたいのがある。いまの世の中は、物がありすぎるほどであるので、これ以上物をつくらなくてもよい。物が増えればごみになりかねない。ごみを増やすのはよいことではない。

 ポジション(地位)をとったあとに批評をするのだと、成功者バイアスのようになってしまう。しかるべきポジション(地位)をとった人でないと批評ができないのでは、開かれているとは言えそうにない。批評家にならないようにして、ポジション(地位)を勝ち得ることを優先させるのは、実行や行動に重きを置くことになるが、実行や行動をしないこともまた重要だ。実行や行動をすることでまちがったり失敗してしまったりすることは少なくないから、それに待ったをかけて立ち止まることには値うちがある。

 まっとうな人が、まっとうなポジション(地位)にいるのだと言えるのかというと、必ずしもそうとは言い切れそうにない。まっとうでない人が、上の地位に居座りつづけてしまうことがある。それによる害は、決してまれなことではない。よくあることだというのがある。上の地位にいる者に素直に従うことで益になるというのは、呼びかけに簡単に応じてしまっているのであり、隷属していることをあらわす。

 隷属してしまうのにあらがうためには、上の地位にいる者からの呼びかけに簡単に応じないようにして、たやすく信頼しないようにすることがいる。言っていることをうのみにしないようにして、いちおう疑うようにしたほうがよい。無批判になるのではなく、一つひとつをなるべく批判として受けとるようにして、批評して行くことがいる。

 日本では、言ったことが本当になるといった言霊の信仰があり、よくないことをあげつらって言挙(ことあ)げすることがうとんじられやすい。煙たがられるのがあり、言わないでよしとしてしまうことが少なくない。上の地位にいる者にきちんとした批判や批評が行なわれていず、野放しになってしまっている。これは堕落しているのにほかならない。いや堕落などしていない、という反論があるかもしれないが、そこについては、あえて堕落や退廃をしてしまっているのだと言いたいのがある。

 もっと人々が批評意識をもつことができて、さかんに批判や批評が行なわれれば、世の中は今よりもずっとよくなるのではないかなという気がする。もっと人々は権利の主張をしてよいのがあるし、現状のおかしいところやまちがっているところをどんどんと指し示すことができればよい。権利を主張するのは、特権をとるのとはちがうから、そこは区別することができるものである。権利としては、まっとうな労働条件や、まっとうな賃金の支払いや、必要にして十分な衣食住の基本の需要を満たすことなどがある。これらのことを求めるのは、のぞみすぎなものではないだろう。

 報道や表現の自由があるので、すでに十分すぎるほど批判や批評は言われているのがあるのだから、それで十分だという意見は言えるかもしれないが、個人としてはそこはかなり不十分なのではないかというのがある。遠慮させられて、黙らされてしまっているところがたぶんにある。社会的偏見(social bias)がはたらき、現実にむりやりに順応させられてしまう。画一の現実に追随させられる。順応主義(コンフォルミズム)および追随主義(ポジティヴィスムス)への転落となる。それにくわえて、個人にふりかかる負のできごとが自己責任にさせられてしまっているのがある。生きるうえで引きおこる危険が、個人化されてしまっていて、安全網がみなに公平になるようにはしっかりとははたらいていない。