死刑の制度があっても、事件はおきてしまったのはあるから、犯罪の抑止にはならないとする欧州連合の指摘は当たっているところはある

 死刑囚の死刑が行なわれた。オウム真理教にかかわる人たちであり、そのなかには教祖だった人物も含まれている。七人の死刑囚の死刑が行なわれるのは異例だという。法務大臣は、慎重に検討を重ねたということを言っているが、いっぺんに七人もの死刑囚を死刑にするのは慎重だとは言いがたい。

 欧州連合(EU)は、日本でオウム真理教にかかわる人たちの死刑が行なわれたことを受けて、死刑への反対の声明を出したという。死刑には犯罪の抑止の効果がないし、えん罪になってしまうおそれがある。どのような状況のもとでも、極刑を行なうことには強く明白に反対するとしている。

 国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルも、日本で死刑が行なわれたことに反対の意を示している。司法には説明責任とともに、人権を尊重することが求められているといい、死刑は究極の人権の否定だとしている。

 欧州連合アムネスティ・インターナショナルの言っていることは絶対にまちがいなく正しいということはできないかもしれないが、日本で行なわれた死刑にたいする一つの批判になっているのはたしかだ。この批判にたいして、欧州ではテロの実行犯をその場で射殺するではないか、との非難が投げかけられていた。それについては、欧州は国家連合の形をとっていて、移民を多く受け入れているのもあるから、そういった事情をくみ入れることがいる。死刑とはやや異なっているものと見なせる。テロの実行犯をその場で射殺するのは、国家による暴力ではあるだろうけど。

 オウム真理教の地下鉄サリンなどの事件は、きわめて悪質なものであり、そうした事件に具体的に関わった人は、死刑になるのもいたしかたないというか、当然なところはあるだろう。そう見なせるのはあるが、死刑ということを(そこだけを)切りとって見ることができるとすると、国家が死刑囚を殺すということであり、これが許されるのかというのはある。国家が死刑囚を殺すのは殺人ではないのだろうか。これは、そこだけを切りとって見ればという話にすぎないものではあるが。

 欧州連合アムネスティ・インターナショナルによる声明は、人権というものを重んじた見かたになっている。人権というのが絶対に正しい真理だというわけではないかもしれないが、ゆるがせにすることのできない一つの重要な理念ではあるだろう。人権というのに加えて、国家というものを実体として見なすというよりは、社会契約説の文脈でとらえているのもある。社会契約説の文脈で国家を見なすことにより、人権の理念が重んじられるというのがある。

 社会契約説の文脈で見るとすると、たとえ国家から死刑を言いわたされた人(死刑囚)であったとしても、いざ死刑が行なわれることになり、国家から殺されそうになったら、その時点で、死刑にされる人と国家との社会契約は破れることになる。死刑にされる人が、ほんとうは無罪であり、えん罪であるかもしれないということも関わってくる。社会契約が破れるので、死刑にされる人は死刑をしようとする国家から逃げてもよいことになる。しかしじっさいには国家から逃げられるものではない。逃げるのが絶対に正しいかどうかは言い切ることはできないものではあるが。