親孝行や愛国(国を愛する)というのよりも、個人がどうかというほうがもっとも重要である(個人にもっとも大きな価値がある)

 憲法に、親孝行や、愛国心をもつことを書く。憲法の改正でそれらを書きこむようにするのがよいと、愛知県の前知事は言っていた。

 憲法というのは、国民一人ひとりの自由を保障するものなのだから、親孝行の気持ちをもつ人がいてもよく、もたない人がいてもよい、としたほうがよいだろう。愛国心をもつ人がいてもよく、もたない人がいてもよい。それらをもつかもたないかは、それぞれの人の価値のもち方によるものであり、自己決定によるようにする。

 親孝行の気持ちをもつのは悪いものではなく、のぞましいものではあるけど、そのいっぽうで、社会福祉というのがある。社会福祉によって社会保障の制度がとられているのだから、親孝行というよりもそちらの物理の制度のほうがより重要だろう。

 社会の中で困っている弱者を救うことがいるけど、日本ではそれが十分にできていない。自己責任で片づけられてしまっている。それにくわえて、受益と負担というのがあり、これまでは、低もしくは中くらいの負担で、大きな受益を求めていたが、それができなくなってきていると言われる。そこをどうするのかが問われている。

 親孝行や、愛国心というのは、精神論であるけど、そうした精神論をもつことは、それぞれの個人が自分で決めればよいことだろう。上からどうこう言ってしまうと、父権主義(パターナリズム)になりかねない。親孝行といっても、すべての親がきちんとしているのではなくて、なかには子をしいたげるよくない親もいるだろうから、そういった親に孝行するのがいるのかは一概には決めづらい。

 愛国というのにおいては、すべての国が、いついかなるさいにものぞましいことをするとはかぎらない。国は暴力を独占していて、それで人々を従わせているのだから、正しいことをやっているのでは必ずしもない。愛国というのはイデオロギーにすぎず、それに反抗するのであれば、戦前や戦時中には厳しい弾圧をこうむることになった。国は破滅して、人々は犠牲になり、失敗をした。国を愛することよりも、その過去のまちがいによる大失敗から何を(反面教師として)得るのかのほうがより有益である。

 いまでは抑圧はおもて立っては行なわれていないけど、それは国が自分で自制しているのではまったくなく、かろうじて権力に歯止めがかかっていることによる。その歯止めを与党の政治家は(憲法の改正で)とり払おうとしているのがあるから、危なっかしくてとてもではないが気を許せるものではない。否定と回帰や、禁止と侵犯の二重運動が、国の為政者によってねらわれている。過去の大失敗にまったくといってよいほどこりていないのである。歴史修正主義(自由主義史観)をとっているしまつだ。

 国の政治をになう政治家(権力者)は、国というのをとり払ってみれば、たんなる一人のどこにでもいる(とるに足りない)人間にすぎない。いざとなれば、政治家(権力者)は、国民を見捨てて逃げ出すものであり、最後の最後まで国民の面倒をみるとはおよそ考えづらい。じっさいに先の大戦では敗戦になり、国民のことをおっぽり出して為政者はとんずらした。自分たちに都合の悪い証拠の書類はせっせと焼き捨てた。しばらくのあいだは、国民は自分たちで食べるものを探さないとならなかったという。それをふまえれば、愛国心をもつことに意味があるのかははなはだいぶかしい。国や政治のあり方が、誰も責任をとることのない無責任体制になってしまっているのだ。