残業代が補助金のようなものであるとして、それの額をもっと高くして、残業をさせづらいようにすれば、時間としては長時間労働のまちがいを改められることが見こめる

 生産性が低い人に残業代をはらう。それは補助金を与えることだ。経済学者の人はそう言っていた。生産性の低い人に残業代を出すのは補助金を与えるようなものであり、おかしいことだという。

 経済学者の人はそう言っているが、これをそのまま正しいことであるとして受け入れるわけには行きづらい。そのまま受け入れるわけには行きづらいが、残業というのが常態化しているのを改めるのであれば、残業代の割り増しの賃金を高めるようにすればよい。残業代のことを補助金(のようなもの)だと経済学者の人は言っているが、その補助金の額をさらに高くするのである。

 残業代が補助金のようなものであるとして、その額をさらに高くすれば、使用者はそうとうな痛手を負うことになるので、割りに合わないということになり、残業をさせることができづらくなる。まともな労働のあり方ということで言えば、なるべく残業がないようであるほうがよく、そのうえで生活するのに十分な賃金が支払わるようであればよい。

 残業代は補助金のようなものであり、それを(生産性の低い労働者に)払うのがおかしいのではなく、その額が低すぎるのである。額が低すぎるのを高くしてしまえば、おいそれとは使用者は労働者に残業をさせるわけには行きづらくなる。時間ということで言えば、残業をしない(させない)ですむほうがのぞましい。

 労働者の生産性の低さを責めて、それをうんぬんするよりもまず、きちんとした人間らしい労働の環境を、すべての人に例外なく整えるのを先行させるほうがよい。生産性といっても、それはしょせんは量(定量)のものにすぎず、それよりも定性のほうが重要だ。量のものさしではかって数字で評価するのは単一の世界観による生産中心主義にほかならない。数字でものごと(人など)を評価するのは、ただでさえ労働は楽しいものではないが、なおさら楽しい労働にはなりづらい。

 基本として労働はやらされるものであり、自分からすすんでやるものではない。そこでさらに数字で評価されれば、非人間さがより増す。機械の部品のようにあつかわれ、人間が物のようになり、つらいものである。極端にいえば、それは死の世界である。そういったことから脱して、人間の定性によるそれぞれのちがいなどの質を重んじて、標準以外を排斥しないようにする。非標準を許容できたほうが、人間的である。