割り切れるとしてしまうと一神教のようになるが、そうではなく、割り切れないものとして多神教(経験主義)として見ることができる

 性の被害を受けたとされる女性と、それをおこしたと見られる男性がいる。その男性は検察から起訴されなかったのがあり、刑事の裁判は開かれていない。そこから、無罪推定の原則を当てはめて見ることはできるだろう。それによって見ることで、男性は無罪となるのかというと、そうとも言い切れないところもある。

 そこで男性を無罪として見てしまうと、女性が嘘を言っているということになり、女性がまちがっているということになるけど、そう見られるとはかぎらない。女性が嘘をついていて、まちがっているとして見てしまうと、こんどは女性を有罪推定の前提で見てしまうことになる。女性を有罪推定の前提で見るのは避けなければならない。

 性の被害を受けたとされる女性と、それをしたとされる男性とで、言っていることが食いちがっている。すべてがすべて食いちがっているのではなく、たとえば性の行為をホテルで行なったのや、途中のタクシーの中で、駅で降ろしてくれと女性が言ったことなどは、男性も認めている事実である。

 女性と男性とで言っていることが食いちがっているところがあるが、一つの見かたとしては、どちらかが本当のことを言っていて、どちらかが嘘をついているのだろう。はたして、どちらが本当のことを言っていて、どちらが嘘をついているのかは、はっきりとは決めがたいところがある。そこについては、寛容の原理を当てはめて見ることができるものである。

 ちょっと非寛容になってしまい、偏ってしまうのはあるかもしれないが、男性の言っていることが、つくった話ではないという確たる根拠はない。つくった話であるおそれもないではない。これは女性についてもまたそう言えるのはあるが、女性の言っていることが、まちがいなくつくった話であると決めつけてはならないものだろう。もしかしたら本当のことを言っているかもしれないと見ることもいる。

 男性の言っていることが、必ずしも本当のことだとは限らず、つくった話であることがあるというのは、中立の見かたとは言えないものかもしれないが、そこは完全には払しょくできないものだろう。自由民主党の議員の人は、男性の言っていることはまちがいなくつくった話ではないとしているようだが、そこについてはそうとは言い切れず、もしかしたらつくった話であると見ることができるから、そうして見るのがふさわしい。そう見ないと、女性の側に陰謀理論を当てはめる、まちがった見かたにつながってしまう。

 男性の言っていることが、まちがいなく本当のことであり、つくった話であるわけがないとしてしまうと、そこから二律背反(トレード・オフ)により、女性を有罪推定の前提で見てしまうようになる。二律背反によって、女性を有罪推定の前提で見てしまうと、一つの教条(ドグマ)となってしまう。それにおちいるのではなく、二律背反に耐えるようなかたちで、どちらをも無罪推定の原則と寛容の原理を当てはめて見ることはできないではない。難しいところはあるわけだけど。

 神の死があり、最高価値の没落があるので、価値の多神教というのがある。価値の多神教では、これが絶対だとか、これが絶対に正しいだとかは決めがたいのがある。男性の言っていることがまちがいなく正しく、つくった話であるわけがないとしてしまうと、一神教のような見かたになるので、それにおちいると危険さが生じる。多神教として、相対的に正しく、相対的にまちがっている(かもしれない)という見かたが成り立つ。

 男性は無罪であるが、それをおかしいとする女性をまちがっているとか嘘をついているというふうにしてしまうと、男性を白として、女性を黒とすることになる。これは仕立て上げてしまっているものである。男性が白だという見かたは一つにはあってもよいものだが、それとは別に、ずらして見ることもできる。黒と決めつけるのではないにせよ、灰色だとして見ることはできる。男性と女性で言うことが食いちがっていて、真相がはっきりとしていないことをくみ入れると、男性を白とは別に灰色(または黒)として見るのは、そこまでおかしなものではないだろう。