女性と母親というたとえの設定ではあるが、じっさいには(自民党の議員の人は)女性にとっての母親ではないし、女性がこうだったと言っている言い分を聞いてもいない(現実にもとづいたアレゴリーには必ずしもなっていない)

 仕事がほしいという目的で、妻子がある男性と二人で食事に行く。それでお酒をたくさん飲んで意識をなくす。それを介抱してくれた男性のベッドに、半裸で潜りこむようなことをする女性がいたとして、その女性の母親だったとしたらしかり飛ばすだろうと、自由民主党の議員の人はツイートをしていた。

 その女性の母親だったとしたらしかり飛ばすとして、そんな女性に育てたおぼえはないと言う。恥ずかしいし、情けないことであり、もっと自分を大事にしなさい、と言うとのことである。

 女性の母親だったらしかり飛ばすとのことだが、男性のほうをしかり飛ばしたらどうだろうか。もし男性が紳士のような人であれば、女性のことをおもんばかるはずであり、自分の劣情にそのまま動かされてしまいはしないものだろう。すべての男性にそれを求めることはできないかもしれないが、そうしたことができる男性もいるはずだ。

 女性とその母親というたとえで言うのであれば、女性の言っている言い分を母親は聞くことがあるのがよい。しかしじっさいには、このたとえでいえば、女性の言っている言い分を母親は聞かないで、ちがったふうに一方的に決めつけてしまっているのがある。自民党の議員の人のツイートは、女性よりも、女性に性の被害を与えたとされる男性のほうの言い分を聞いて、女性の言っている言い分はまちがいだと母親はしてしまっている。なぜ母親は、女性ではなく男性のほうの言い分を聞き入れているのかが不可解だ。