食べるものを手に入れるにはお金がかかるのだから、衣食住をまかなうのに十分なお金が人々に支払われることがいるが、すべての人にそれができてはいない(安全網としての社会保障もまったく十分ではない)

 いまは食べるものに困る家はない。こんなにすばらしい幸せな国はない。自由民主党の議員の人はそう言っていた。これには素直にうなずくことができそうにはない。

 かりに、いまは食べるものに困る家はないのだとしても、それはその家やその家の中の人が、それによってすばらしいとか幸せだとかと感じることであり、国がどうとかという話ではない。たとえ食べるものに困っていないのだとしても、幸せでない人もいるのだから、客観的に見てすばらしい幸せな国であるわけがない。

 食べるものに困らないのは、生きて行くためにいることなのだから、それは満たされることがいるものである。満たされることがいるものが満たされたからといって、それですばらしいとなったり幸せになったりすることにはならない。食べるものに困らないというのが満たされていても、幸せではなく、苦となるものを抱えて生きている人は少なくないだろう。それを自己責任であるとして政治は放ったらかしにしてしまっているのではないかというのがある。

 すばらしい幸せな国ということでは、昔に比べていまはどういう点でよくなっているのかや、また逆に悪くなっているのかを見るようにしないとならない。通時でそれを見るのとともに、共時では、ほかのさまざまな国に比べて、ここがよい点だとか、または逆にここが悪い点だというのを見るようにする。よい点はあればよいことだが、悪い点がまったくないというのは考えられないので、そこを改めるようにすることがいる。そこを改めようとしないで、すばらしい幸せな国もへったくれもない。

 すばらしくもないし幸せでもない国なのだと客観で言うことができるのではないかもしれないが、すばらしい国だと感じていなくて幸せではない人がいないとは言えないのだから、そうした人の声を十分に聞き入れて受け入れられるかどうかが大事である。それがほとんどまったくできていないのがある。人々が国をありがたやとしてあがめたりうやまったりするようなことはとくに不要なことである。それをやりたい人はやるのはよいけど、ありがたやとしていれば負のことがらが片づくわけではない。国をありがたやとしていても、たとえば国の財政の赤字は消えてなくなることはなく、借金は増えつづけていっている。

 経済などの格差がまったくないわけではないのだから、どこかで笑っている人がいれば、その陰では別のどこかで泣いている人がいるはずだ。泣いている人は声を発さないことが少なくない。泣き寝入りさせられてしまう。かりに日本がすばらしい幸せな国なのだとしても、それはすべての人にとってではないのであり、偏りがあるものだろう。ひどくなれば過労死などで命を失うこともあるのだし、そうしたおきるべきではない犠牲の(隠ぺいと抹消の)うえに国の秩序は保存されている。

 食べるものにはさしあたって多くの人は困ってはいないかもしれないが、そうであるのとは別に、どうしようもなくなってしまっているのがある。政治では、立ち場のちがうもの(政治家)どうしのあいだで、話し合いがほとんどまったくといってよいほど成り立たなくなってしまっているひどいありさまである。それで権力者は平気でにこにこへらへらとしている。これが正常だと言うわけにはちょっと行かない。真面目ではなくちゃらちゃらしているふうに映る。

 自分で家庭をもちたいと思っていても、経済などのことでそれがかなわない人は少なくない。これは失政がもとになっていることではないかというふうに見ることができる。家庭を持ちたいという人が気軽に家庭を持てて、子どもを気軽に産めて育てられるようなことができるためには、十分なお金が人々に支払われていないとならない。支えられることがいる。それらがすべての人にできていないのに、すばらしく幸せな国であるわけがない。じっさいにできていないのはおろか、希望すらもつことができないありようになっている。それができていたり、希望したりするのを求めるのは、そこまで高のぞみというわけではないだろう。