悪魔の擁護者には、日本を好きなのや国を愛するのでは見こめないような、大きな効用や値うちがあるのではないか(まちがいなくそうだというわけではないかもしれないが)

 日本を好きだったり、日本の国を愛したりする。それにたいしてじゃま立てをするのは悪いことなのだろうか。そうしたじゃま立てがないあり方はのぞましいあり方なのかというと、必ずしもそうだとは言えそうにない。

 じゃま立てがないあり方がほぼできているものが現にあり、それがいまの政権与党だと言うことができる。いまの政権与党は、政権にたいする反論や異論がほとんど出ないようになってしまっている。ほとんどの人が首相を中心とする政権のほうに顔を向けている。理想としては、まんべんなく顔の見えづらい国民を広く見るようでないとならない。

 いまの政権与党のあり方は健全なのかというと、そうではないものだということができる。これは人によって色々な見かたができるものかもしれないし、もっとくわしく見て行くことができるものではあるだろう。そうしたのはあるが、集団の中で反論や異論が気安くできないのは息苦しいものである。

 日本を好きだったり、日本の国を愛したりする人を増やすのではなく、悪魔の擁護者(devil's advocate)がたくさんいるようにするのがのぞましい。悪魔の擁護者とは、反論や異論を言う人である。そういう人がいく人もいることによって、いまの政権与党のような、みんながみんな首相をおもんばかり、そちらを向いてしまうような不健全なあり方を避けるようにすることができる。幅広く色んな意見を気安く言うことができるようであることで、開かれた公共性をとることができやすい。

 反論を言ったり異議を言ったりするのは、一見すると毒となるところがあるが、それはひるがえって薬となるのが見こめる。判断や意思決定がおかしいままにつき進んでしまうことに歯止めをかけやすくなるのが見こめる。その歯止めがほとんどかかっていないで、つき進んでしまう一方であるのが、いまの政権与党であるということができる。ゼロではないにせよ、ほぼ不在となってしまっている悪魔の擁護者がいく人も集団の中にいれば、加速度がついてつき進んでしまうのを防ぎやすい。加速度がついてつき進んでいってしまうのは、イエスマンにこと欠かないせいだろう。

 イエスマンばかりに囲まれていれば、対立点をつくることがおろそかになってしまいやすい。それはのぞましいものではないのがある。たとえめんどうであったとしても、イエスとノーという対立点をあえてつくって、それで肯定にたいする反対説をとるようにすることができれば、もしかしたら肯定よりも反対のほうが適しているのだということに気がつくきっかけをとりやすい。たんに肯定をとるだけで、対立点をまったくとらないのであれば、反対をとらないことになるので、反対を見てみるというきっかけをもつことができづらい。