子どもを産むのと産まないのとで、どちらのほうが幸せかというのは、あまり意味があることではないかもしれない

 子どもを産まないほうが幸せだというのは身勝手な考え方だ。自由民主党の議員の人はそう言っている。みなが幸せになるために、子どもをたくさん産んで、国も発展して行こう、としている。貧困問題については、いまは食べるものに困る家はないとして、こんなにすばらしい幸せな国はない、と述べている。

 子どもを産むか産まないかという前に、結婚をするかしないかは人それぞれの自由である。いちおう一つの段取りとしては、結婚をして子どもを産むというのがあるので、結婚をしないのは身勝手とは言えないし、子どもを産まないのもまたそうだろう。

 子どもを産むというのは義務ではないから、産まないという権利がある。自己決定権をとるものである。そこについて、はたから干渉する父権主義(パターナリズム)をとらないほうがよい。みなが同じ環境や状況で生きているのではなく、それぞれがちがう外や内の事情をかかえているので、単純に比べることはできないものである。

 国家の上位には世界があるが、世界では人口が増えつづけている。人口が増えていることで、食料が不足するなどの問題がおきている。人間がいることで自然を壊してしまうのがあるので、人間が増えることはよいことだとは言い切れない。減ったほうがよいという見かたも成り立つ。

 国家の中では、人口が増えるのがまちがいなくよいことなのだろうか。そこには疑問符がつく。人口が増えると、競争が激しくなるので、厳しさは増す。人口が少ないほうが、競争が激しくなりづらいので、生きて行くのにゆとりをもちやすい。これは単純すぎる見かたではあるかもしれないが、人口が少ないほうが、多いよりも、競争相手は少ない。

 子どもをたくさん産むことで、幸せになったり国が発展したりするかというと、そこの結びつきはそこまで確かなものではないだろう。人口が増えることによって、すべての問題が解決したり、すべての困難が克服されたりするという、打ち出の小づちのようなことは見こみづらい。人口の総数が多いと、充実した社会福祉のサービスができづらいと言われる。そうしたサービスを受けられないでいる人も少なくない。

 子どもをたくさん産むというのは、頭数を増やすということだろうけど、頭数を増やすことよりは、社会の中で女性の活躍をうながすのはどうだろうか。教育に十分に力を注いで、男性と女性がともに活躍することができるようにする。フランスの思想家のシャルル・フーリエはこう言っているという。女性の特権(権利)の伸張はあらゆる社会的進歩の一般原則である。学者のエマニュエル・トッドは、男性とともに女性が社会の中でしっかりと活躍することができるようになることで、平和につながって行くと説いている。

 子どもを産まない幸せというのはあってもよいものだろう。それがあってはいけないとか、身勝手だというのは、子どもを産むことの幸せだけが正しいということだろうか。たしかに、子どもを産むことの幸せはあるだろうし、それは尊いことだが、その逆がまちがっているというわけではない。正しいことが一つあり、その反対のことがまちがっているというわけではないから、反対の逆だけが正しいということにはならないものである。気力がない人に、気力を出せ、というのは、たんに逆を言っているだけであり、どちらもとくにまちがっているわけではない。

 子どもを産まない人が少なからずおきているのは、都市(東京都)への一極化が強くなりすぎているからだという説が言われている。この説によることにすると、都市(東京都)への一極化を和らげるようにして、地方へ分散させて行くのができればよい。子どもを産んで幸せに生活ができるような環境を整えることによって、移住や定住ができるようにしている地方の自治体もあるという。それをもっと国が主体となってうながすようにするという手だてはとれそうだ。