働くというのは必ずしも善ではない(無駄なものをつくっている)し、善ではないよくない働き方をまず見ることがあればよい

 働き方をよくする。働き方改革高度プロフェッショナル制度は、そのためにとられているものだろう。それがほんとうに働き方をよくするのにはつながらずに、かえって悪くなることが危ぶまれている。

 働き方をよくするために、何をすることがいるのかといえば、長時間労働や、低賃金や、過労死などの負のことがらをなによりも先に見なければならない。負のことがらを率先して見なければならないのがあるけど、それを見ないで、正のことがらをやろうとしてしまう。負のことがらを見ていないので、政権与党がやろうとしている正のことがらは、おかしなものになる。

 働き方をよくするために、負のことがらを見るのは、欠くべからざるものである。長時間労働や、低賃金や、過労死などで犠牲になっている(なった)人たちの声を聞くべきである。それがないことには、のぞましい働き方の改革をとることはできづらい。

 働き方において、いちばん悪くなっていたり、いちばんおかしかったりするところを見るくらいでちょうどよい。これはいちばん悪いとか、これはいちばんおかしいというところを見て、そこからそれをどう正すのかという話になる。せっかく働き方を改めるというのであれば、深刻に悪いところやおかしいところを見ることがあればよい。それによって、きちんとした改め方につなげられる。

 働き方を改めるのは、社会の中での差別や抑圧を改めるのに通じるところがあると見なせる。社会の中の差別や抑圧を改めるのには、じっさいにそれによる被害を受けて苦しんでいる人の声を受けとめないとならない。それがないことには改まりようがない。害をこうむっている人が声を発せられるようにして、その声を受けとめられるようにする。その声を生かすような形で、改めるための手だてをとるようにする。

 上から演繹で進めるのではなく、下から帰納でやって行くのがのぞましい。下で危機におちいっている人たちの声を受けとめるようにして、そこを認識するのでないと、働き方のおかしさについての的を得た危機意識をもつことができづらい。国の危機というより前に、個人の(とりわけ弱者の)危機を見るべきである。国という全体は不真実であるということを無視することはできづらい。

 経済の市場では等価交換でものがやりとりされるが、それは表面のものにすぎず、じっさいには差別が横行する。その差別によって被害を受ける人が少なからず出てくる。労働の市場では、長時間労働や、低賃金や、過労死がおきる。あるべきではない不正や搾取がおきてしまう。

 働き方を改革するというのは、今まで行なわれてきた働き方の汚れをとり除いてきれいにするというのをあらわす。汚れをそのままにして、働き方を改めることはできづらい。汚れたままにして目をつぶって耳をふさいでいるのが政権与党だろう。そうではなく、まず汚れがあるのを認めて、それをどうするのかを見ることができればよい。

 汚れをとり除くのに適した役をになうのは、長時間労働や、低賃金や、過労死などで犠牲になったり苦しんだりしている人たちであり、その声を受けとめるのが欠かせない。働くことにおいて、中心ではなく周縁に位置づけられてしまっていて、抑圧されてしまっている人たちを、中心にもってくるようにできればよい。周縁に位置づけたり抑圧したりして犠牲を生んでいることが、国という全体においての欺まんだろう。

 能力や生産性が足りないから、低い評価を受けて当然なのだろうか。評価のものさしが単一であるのは、たった一つの角度からしか人を見ることにならないから、適した評価になりづらい。色々な角度から見ないとまっとうな人への見かたにはならないが、それよりも単一の見かたによる効率をとってしまうのが経済である。効率をとってしまうことで、適正さがないがしろになってしまう。

 効率がとられて、適正さを欠くなかで、生活苦などの苦境におちいってしまうのは、自己責任とは言えないものだろう。ひどいと過労死にまでいたってしまうこともある。過労死というのはゆるがせにはできない事件であり、働き方を改革するさいにそこをきわめて重大なこととして見なさないのは、与党に属する政治家の人たちの怠慢であると言わざるをえない。長時間労働や低賃金などについても、改めるべきものとして重んじて見ることがあればよい。

 社会としての個人と、個人としての個人というのを、切り分けられればよい。これは思想家の吉本隆明氏によるとらえ方である。社会としての個人は、経済で高い評価を得たり低い評価になったりする。そこはやむをえないものだが、個人としての個人というのはまた別に見ることがいる。個人としての個人は無条件でわけへだてなく生活の安心を得られるようにできればよい。

 個人としての個人が生活をするさいにいるものである、最低限の衣食住などの基本となる必要は、みなに行きわたるようになっていることが、よいことであると個人としては見なせる。理想論にすぎないものではあるかもしれないが、個人としての個人の領域は、無条件のものとして、経済の数値による単一の評価ではからないようであれば、おかしなことになりづらい。