日本が好きだったり愛国心をもったりするのは、一つの範ちゅうであり、その中にはさまざまな価値のものがあると見なせる(すべてよい価値をもっているわけではない)

 日本が好きな人の足を引っぱるのはよいことではない。日本が嫌いな人がいてもよいとは思うが、日本が好きな人のじゃま立てをするのは駄目だという。タレントの人はテレビでそう言っていたけど、日本が好きだったり愛国心があったりするのは、一つの集合だと見なせる。その集合の中にはいろいろな人がいる。それを無視しづらい。

 日本が好きだったり愛国心があったりするのは一つの範ちゅうであり、その中にはさまざまな価値がある。すべてがよい価値をもっているとは言えそうにない。なかには悪い価値をもっているものもある。たとえば憎悪表現や差別などである。憎悪表現や差別は悪い価値であるから、そこへの批判をするのはいる。自民族中心主義が行きすぎてしまうのはまずいので、それが行きすぎないように歯止めをかけられればよい。

 憲法の改正についても似たようなことが言える。一と口に憲法の改正とはいっても、その範ちゅうの中にはさまざまな価値がある。なかには負の価値をもつものもあるのはたしかだ。負の価値をもつものとしては、とにかく何が何でも憲法の改正をする、といったものである。何が何でも憲法の改正をするのは、手段の目的化であり、のぞましいことではないだろう。そうしたものをひっくるめてしまい、憲法の改正ということでまとまってしまうのであれば、そのなかには負の価値のものが混ざりこむ。それについて批判をすることができるのがある。

 日本が好きか嫌いかや、愛国心があるかないかは、一か〇かではなく連続したものだろう。性でいうと、男性と女性は一か〇かではなく連続したものだと言える。らしさの度合いである。それと通じるところがある。一か〇かではないというのでは、好きでなければ嫌いであるとは言えそうにない。好きでないとしても、嫌いであるとは言い切れず、単色ではなくいろいろな色によるのがある。両価(アンビバレント)ということがある。

 純粋に日本が好きだとか、純粋に愛国心があるというのは、むしろおかしい。混じり気なしに好きだったり愛国心があったりするとは考えづらく、何か混ざりものがあるものである。人間は純粋なものではなく、不純なものだというのがある。もし純粋であれば天使のようなものだが、そうであるのだとすれば、法律はいらないし国や政府もまた無くてすむ。

 日本が好きだったり愛国心をもったりする人が、ほんとうに日本が好きだったり国を愛していたりするとはかぎらない。うわべで言っているだけであり、ほんとうは逆の気持ちをもっているかもしれない。ほんとうは逆なのであれば、言っていることをそのまま受けとるのではなく、その逆がほんとうのことだとして受けとることがいる。

 好きか嫌いかや、愛国心があるかないかというのは、そこまで明らかなものとは言いがたい。そのあいだの線は揺らいでいるものである。たんにうわべで言っているだけのこともあるから、そうだとすれば、好きか嫌いかや愛国心があるかないかは、そうたいしたちがいではないということになる。嫌いをうら返して好きにくみ入れられないではない。相対化することができる。東洋の陰陽の思想では、陰と陽は相対のものであり、転化することがあると言われる。

 日本は客体として、好きになられたり嫌いになられたり、愛国心をもたれたりもたれなかったりするわけだが、そうされる客体の日本は動いて行くものである。するほうの主体の人もまた動いて行く。客体と主体のどちらも動いて行くのだから、好きは好きのままだったり、嫌いは嫌いのままだったりというのは、そこまで自然なものではないだろう。主体のもつ気持ちが、ときに温まったりときに冷えたりするのはあってよいものである。一つの感情による単眼ではなく、いくつもによる複眼で見ることができたほうが、つり合いをとりやすい。

 アメリカの女流作家のウィラ・キャザーは、ひとりでは多すぎる、ということを言っているという。ひとりではすべてを奪ってしまう、としている。これは恋人のことを言っているもののようだけど、国や民族にたいしても当てはめることができる。自分が属する国や民族だけではなく、そのほかの国や民族との関わりは欠かせないものである。交流や交易をすることがいる。

 国や民族のあいだに対立がおきてしまうとやっかいだが、そのさいに、自分が属する国や民族を正しいとするのではなく、それを相対化できれば、激しい対立を避けて和らげることにつなげられる。自分が属する国や民族は、一つの物語だとできるので、物語は一つではなくいくつもあったほうが相対化することができるのでのぞましい。一つだけではなくさまざまなものにふれる方が、視点が多くなるので有益である。