人間が労働から少しずつ解放されて楽になって行くのが進歩や発展だという気がするのだけど、そうはなっていないのはなぜなのだろう(これまでの歩みのふり返りが足りなかったり、不公平になっていたり、どこかおかしなところがあったりするからなのではないか)

 生産性の低い人が、残業代をもらうのはおかしい。残業代は生産性の低い人にたいする補助金であるという。経済学者の人はそう言っているが、生産性が低いから残業をして、残業代をもらうとはかぎらないものだろう。生産性が高い(低くはない)けど、残業代が出るから、それを見こして残業をやっているのかもしれない。個人の生産性とそこまで強い相関関係があるかは断定できそうにない。

 働き方改革で、高度プロフェッショナル制度を政府はおし進めようとしているが、そのなかに加わっている経済学者の人も含めて、一つの正解幻想によっているところが見うけられる。一つの正解幻想は、心理学者の伊藤進氏によるものである。正解は一つではなくいくつもあるのにもかかわらず、一つしかないという幻想におちいってしまう。

 正解は一つだとして、それによってものごとをおし進めて行くのではなく、反対となる説やちがう説にも目を配るようにするのがよい。おなじ山を登るのに、どこの道から登ろうとするのかというので、いろいろな道による登り方があってよいものだろう。ここしか道はないといっても、じっさいにはいろいろな道があるのであり、その中で適した道を選んで行けばよい。

 正解は一つしかないのだとするのは、柔軟性が低いので、基本としてまずいことだが、その正解としていることがまちがっているのであれば、なおまずいことである。正解としてとられているものに、よいことばかりがあるというのはまず考えづらい。何ごとであっても、一つの利があれば一つの害があるはずだ。これをすることによってこういう利があるが、その反面でこういう害がある、というふうに言ってくれれば親切である。そうではなく、利しかないみたいなふうに言うのだと、疑わざるをえない。何らかの意図が隠されているのではないかというふうに見られる。

 働き方改革高度プロフェッショナル制度をおし進めるのに加わっている経済学者の人は、人材派遣会社の経営にたずさわっているそうだから、そういう立ち場性をきちんとみなに示したうえで、それから自分の説を言ってもらいたいものだ。経営者の側に立っているのか、それとも労働者の側に立つのか、どちらに重きを置いているのかを明らかにしたり、もしくは、経営者の側からすればこれが正しくて、労働者の側からすればこれが正しい、というふうにしたりすることができる。それらを総合して万人にとっての一つの正解というのは強引であり無理がある。

 説を言うさいの、発言者を一つの情報の経路だと見られるとすると、その経路が客観ではなく主観なのだとすれば、言っていることをうのみにすることはできづらい。経路が主観によっているのだとすれば、それは客観とはできないのだから、説得性は下がってしまうものだろう。何かを言うさいに、その発言者である経路は、多かれ少なかれゆがんだり偏ったりしているものではあるが、そのゆがみや偏りをそのままに、何でもないようなふうにしてしまうのであれば、ゆがみや偏りがそのまま伝達情報に出てしまわざるをえない。