海外(西洋)のテレビ番組を少しだけ見たさいに、海外のほうが日本よりも優れているところがあるという印象を受けた(主観の見かたにすぎないものではあるが)

 性の被害にあった女性が、海外のテレビ番組に出ていた。それをちらっと見ただけなのだけど、司会が男性と女性で、性の被害にあった女性の話をきちんと聞いていた。

 もし日本のテレビ番組で同じことをしたらどうなるだろうか。ゆったりと間をとって司会の人が出演者の話を受けとめるというふうにはできづらそうだ。出演する人を、何らかの属性で見なしてしまう。テレビ番組を見るほうも、テレビに出演する人を属性で見なしてしまい、動機論の忖度をはたらかせる。動機を邪推してしまうのである。一人の人間として受けとめづらい。寛容性をもつことがむずかしい。色々なところに気を使わざるをえないので、開かれたあり方をとりにくく、閉じてしまいがちだ。

 海外のテレビ番組をもちあげて、日本のテレビ番組をくさすのは、公平な見かたではないかもしれない。単純な比較はできないかもしれないが、テレビに出る人やテレビを見る人の主体のちがいというのは少なからずありそうだ。西洋では絶対の主体であり、個人が自立している。しかし日本は相対の主体であり、属性や関係が重んじられる。個として受けとめるのができづらい。個よりも属性や関係が先行してしまい、その色眼鏡で見てしまう。その場の空気や場面がどうかというのが主となり、和の拘束がはたらく。