法則を学ぶことができたとすると、一つ賢くなったのだろうか(もしみんなで学ぶことができていればの話ではあるかもしれない)

 政府がないと言った文書は、ある。これを法則と見ることができるという。この法則は、われわれが学んだものであると野党の議員の人は言っている。ないと言ったものがあったり、すると言ったことをしなかったり、といったことが目だつ。

 法則というのは、英語では law と言うそうだけど、これは lay に由来するものだという。lay は横わたっているのをさし、もともとあったものを見つけることをあらわす。発見されたものが法則である。

 この法則が当てはまるのは、何によっているのかというと、一つは可びゅうによるのであり、もう一つは間接性によっている。無びゅうではなく可びゅうであるから、ないものをあると言ってしまう。するといったことをやらない。誤びゅうをおかすことになる。

 間接性は、間接民主主義であることによる。政治家は有権者の代理であり、まったくぴったりと重なり合うものではない。ずれがおきてしまう。そのずれが少ないとよいけど、大きければ有権者の意思を政治家が無視することになる。有権者の一部からの声を聞き入れずに、耳をふさいでしまう。ほんとうのことではないことを言うものである、法則を用いるようになる。その負の誘惑に政治家がそそのかされる。その政治家が失脚せず、地位に居すわりつづけていれば、お墨つきを与えてしまい、法則を用いるのをいつまでも許す。

 ほんとうであればこの法則が当てはまらないようであるのがのぞましい。当てはまるようではまずい。政治が腐敗していて退廃におちいっているのをあらわす。政府が言うことの反対が正しいという法則が当てはまるのであれば、政府による伝達情報とほんとうのこととが逆になる。政府による伝達情報の逆が本当のことであるとなる。すべてがそうだというわけではないだろうが、いちおうすべての政府による伝達情報を疑ってかからなければならない。法則が当てはまるのを念頭に置いておくことがいる。批判して行かないとならないというわけだ。

 批判をして行くにしても、それをすることが政府からにらまれることで抑圧されてしまうから、やりやすいものではない。同化圧力(ピア・プレッシャー)がはたらいてしまう。同化圧力にあらがわずにすなおに従うことで、うまみを得られるのがあるから、それにあらがうのは易しいこととは言えそうにない。同化圧力に従うことで、一見すると安定するようではあるが、その実態は不安定であるというのがあり、法則が用いられているのを無視することはできづらい。そこを念頭に置いておいて、批判として見て行かないとならないのはあるだろう。