ご飯論法によってごまかしやはぐらかしをたくさん行ない、それによってものごとが見えなくなり、見えないものはしようがない、とすることには納得が行かない(ご飯論法をやった者勝ちにするのはいかがなものだろうか)

 政治でとり沙汰されていることについて、時間の経つのにまかせる。これは消極のありかたといってよい。きちんとやるべきことなのにもかかわらず、時間の経つのにまかせてうやむやにしてしまうのはよいことではない。積極に問題を解決して行くことがのぞましい。

 積極にやって行くのがのぞましいが、現実にはそうはなっていない。森◯学園や加◯学園の問題について、そろそろおもて立ってとり上げるのは止めにしようといった空気が流れているのがある。この空気は絶対にまちがっているものとは言い切れないが、個人としては賛同できるものとは見なしづらい。

 森◯学園や加◯学園の問題が、あまり重要なことがらではないとして、そろそろとり上げなくてもよいのではないかとされてきている。これはこれで一つの判断ではあるけど、これは何を意味しているのだろうか。一つには、意思疎通が成り立たなくなってしまっているのをあらわしている。なので、意思疎通が成り立たなくなってしまっていることがまずいことなのだということが言える。

 意思疎通が成り立たなくなっているのをあらわすものとして、(識者が名づけたものである)ご飯論法が大手を振ってまかり通っているのがある。ほんとうであれば、この論法が大手を振ってまかり通ることはそもそもおかしい。あってはならないことである。これが大手を振ってまかり通ってしまっているのは、意思疎通が成り立っていないことをあらわす。

 意思疎通が成り立たないといっても、それのどこがいけないのか、という声があるかもしれないが、正しさというのは、意思疎通によって見て行かないとならないものだから、正しくないものを正しいとしてしまい、それでつっ走ってしまうおそれがある。適正さがいちじるしくないがしろになる。適正さがとれないままにものごとを進めて行くと、いくら努力を重ねても、まちがった方向に進んでしまう。

 与党がものごとを進めて行き、世の中の秩序がそれなりに保たれていればそれでよい。それで不満はなく満足できるという見かたもとれるが、与党と世の中の秩序がそれなりに保たれているというだけでは、意思疎通がとれていることには必ずしもならない。

 与党と世の中の秩序がそれなりに保たれているというだけでは、それがまっとうなあり方であることにはならないのがある。その秩序が、どういったことで保たれているのかを見ることができる。反対を否定することで秩序が成り立っているのだとすると、反対を肯定することがとれなくなってしまっている。反対を肯定することもあるのがのぞましい。反対を肯定するのが正しいとすると、それを否定してしまうことで、正しいものがとれなくなる。

 反対となるものの反対が正しい、といった図式をとれる。与党に反対してくる野党は、与党の反対であるが、その反対の反対である与党が正しい、というわけだ。これは、内容の正しさやまちがいをとるものではない。図式によるあり方と言えるだろう。反対となるものを反対するだけでは、内容が正しくなるわけではない。反対となるものは、あるもののおかしさやマイナス面を指し示していることが少なくない。それを否定したところで、それがないことにはならないのはたしかだ。

 反対を否定するとか肯定するとかいうのはちょっとわかりづらい言い方だけど、これは、確証(肯定)の認知のゆがみにおちいるというのをあらわす。与党と世の中の秩序がそれなりに保たれていればよいとするのは、確証の認知のゆがみになっているおそれが低くない。その認知のゆがみを改めるには、確証をとるのではなく、反証(否定)をとらないとならない。それによって確証を相対化するようにする。相対化して歩みよるようにすることで意思疎通をすることにつながる。

 確証すればするほど正しいことにはならず、逆にまちがいにおちいりやすい。確証の認知のゆがみが強くなるためである。与党のあり方として、今はそれが強くなりすぎて、反証がほとんどとられていないようになっている。反対の反対が正しいとしている。その反対がもし正しいとすれば、反対の反対はまちがいということになるのがある。だから、反対が正しいと仮定して見る見かたがいるけど、その見かたをとるのを、足を引っぱることとして、じゃま立てするよけいなことだとしてしまっている。

 ご飯論法などのごまかしやはぐらかしを用いて、いったい何をしようとしているのだろうか。立証するのはけちをつけてくる者の責任だとか、ないことは証明できないだとかとして、それでこと足れりとするのにはうなずきづらい。肝心なのは、とり沙汰されているものごとの真相をできるだけ解明して行くことである。真相を明らかにして行くためには、それに関わりが濃い人ほど、他からの呼びかけに応じる責任があるものだろう。これに応じるのは、ご飯論法で応じるのではない(それだと応じることにまるでならない)。