愛国心をみながもてば国がよくなり国民が幸福になるとは言い切れそうにない(国が悪くなり国民が不幸になった歴史の例はある)

 愛国心をもったり語ったりする。それができづらい。弾圧されていることによる。そうしたことが言われていた。これは疎外論のモデルによる見かたと言ってよい。愛国心をもったり語ったりすることが自然なことであるというふうに見なすものだけど、それは必ずしもふさわしいものとは言いがたい。

 ほんらいはみなが愛国心をもつのがまっとうなあり方であり、それをさまたげるものはまちがっているとしてしまうと、それが絶対の正義ということになる。しかし人間には絶対の正義をとることはできないので、あくまでも相対の正義というのにとどまる。

 愛国心をみながもつのがまっとうだとして、それをさまたげているものをなくして、ほんらいのあり方を回復させるという疎外論のモデルをとってしまうと、専制のあり方となる。愛国心をもつことのさまたげとなるものをなくそうとすることになり、自己保存により敵対を生んでしまうことになる。相手のせん滅をのぞむことになる。

 社会のなかには対立や矛盾があるので、一つのあり方で同一化させるのはできづらい。愛国心をみながもつということで同一化してしまうと、愛国心をもつことの意味もまたなくなるだろう。それをもたない人がいて、はじめてもつことの意味が出てくるのがある。

 国を愛するということでは、国や愛するということは自明のこととは必ずしもいうことはできそうにない。国とは何かや、愛するとは何か、というのをずっととめどもなくさかのぼって行くことができる。とめどもなくさかのぼると、終わりがない。自明ではなく不明ということになる。不明なものを自明とするのは、仮どめしていることであり、仮どめしたものが愛国心だろう。

 愛国心をもちづらかったり語りづらかったりするのがあるとして、それははたしてのぞましくないことなのだろうか。必ずしもそうだとは言えそうにない。むしろそれはよいことだとすることもできないではないし、逆利用することもできる。逆利用するとすれば、愛国心がもちづらかったり語りづらかったりするからこそ、それをよいことにつなげられるというふうにできる。危ない方へ一直線につっ走ってしまうのを防げる。

 愛国心を簡単にはもちづらかったり語りづらかったりする抵抗があるとしても、それのさまたげになる抵抗は、弾圧とまでは言えないものだろう。そうしたさまたげとなるものは、現象であるとは言えるだろうが、原因とまでは言えそうにない。原因となるのは、国がおかした過去の負のあやまちだったり、失敗だったり、まちがいだったりするのがあげられる。結果にたいする原因としては、もっとほかの見かたがとれるかもしれないから、これは絶対のものというわけではない。現象とは別に、原因がどうなのかというのを慎重に見てゆくのは有益である。

 何のためにということでは、愛国心をもったり語ったりすることが目的というのではなく、それは手段といえる。目的としては、手段とは別なものとして、個人の幸福の追求をとれるようにするのだとか、自己決定をとれるようにするのや、自由の幅を大きくするのや、効用を高くするだとかのことがある。それらがきちんと守られているうえで、ある個人が愛国心をもったり語ったりするのはあってよいことである。そうでない個人がいてもよいのがあり、さまざまなあり方がとられたほうがよい。

 愛国心をもったり語ったりすることが、個人の効用を高めることには必ずしもつながらないのだから、そこは切り分けて見ることができる。それによって自分の効用が高まる人もいるだろうが、そうでない人もいるのを無視することはできそうにない。個人のそれぞれの効用ということでいうと、愛国心をもつのは自然なことであるとするのとはまた別のことだから、不自然であっても個人の効用を高めるようにするのはあってよいものである。自然というのは神話作用の産物であることが少なくない。