辞めないというより、辞めるとまずいので辞められないのではないかというげすの勘ぐりができる(辞めると色々と明るみになりかねないので)

 政治でとり沙汰されていることで、騒がれている。そのことで辞めるつもりはないかと聞かれて、首相はそれはないとしていた。北朝鮮の拉致の問題はまだまだだから、自分の責任でこれを何とかする強い使命感をもっているとのことだ。

 森◯学園や加◯学園の問題は、北朝鮮の拉致の問題とはまた別の話だろう。かりに北朝鮮の拉致の問題がまだまだであり、自分の責任で何とかする強い使命感を首相はもっているのだとすると、それはいつからのことなのだろうか。これまでには何をして、それが今どうなって、これからどうする、といった具体の流れがないのだとすると、いつ出てきた使命感なのかが定かではない。

 テレビ番組の司会者は、森◯学園や加◯学園について、これだけ騒がれているのなら辞めてやるというつもりはないか、と首相に向けてたずねていた。それを首相は否定したわけだけど、騒がれていることにたいしてきちんと納得できるだけの説明ができないのなら、辞めなくてはならないのである。説明責任を果たせていないからである。きちんと納得できるだけの説明をせず、それにくわえて辞めもしないというのは、はなはだ納得が行かないものである。

 騒がれていることにたいして、それを自分が原因だとはしていない。説明を十分にしないで、辞めることもない。首相はそういうふうにしているけど、それがふさわしいあり方なのだろうかというのを改められる。ものごとが何とか片づいたとできるのは、ものごとにまつわる疑問や緊張がそうとうに減ったときである。まだまだ疑問や緊張が多くあるのであれば、片づいたことにはなっていない。

 片づいていないということは、まだ明るみにしたりはっきりとさせたりしないといけないことが残っているわけだから、そこに力を入れてとり組むことがいる。そのとり組みをせずに、時間がすぎるのにまかせてうやむやにしようとするのは、はたして有効なのだろうか。けっきょくは、時間が経つごとにおかしさが浮きぼりになってくることがあるし、矛盾しているところや整合しないところがそのままである。

 矛盾しているところは、すべて首相が(納得されるまで)説明しなければならないものであり、ほかの人がやらなければならないものではない。それを自分でやらずに、ほかの人が目を向けることになってしまっているので、いつまでも片づかないし、疑問や緊張がたまってしまったままである。ここをきちんと片づけないことには、とり沙汰されているものごとをうまく乗り切ったことにはなっていない。処理されていない足かせとなる負の部分が残りつづけることになるだろう。