思想を持ったりあらわしたりするのはよいだろうけど、問題のある思想もあるから、それについての問題を指摘することはあってよいものだろう

 アーティストやもの書きが思想を持ちづらくなってきている。作詞家の人はそう言っていた。思想をあらわすということでいうと、かつての太平洋戦争のはじまる前に、その当時のアーティストやもの書きの人なんかが、国家に迎合してしまったり、国家から弾圧されたりしたというのを持ち出せる。思想の転向なんかがおこったとされている。

 アーティストやもの書きの人が思想をもつのはよいとは思うのだけど、国家や権力との関わりをどうするのかというのがある。太平洋戦争がおきる前に、当時のアーティストやもの書きの人が、自分から国家になびいていったり、またはあらがっていたけど弾圧されたりしたことがあるので、それをいまの世の中に持ち出してみることができる。

 太平洋戦争がおきたときといまの世の中がまったく同じ状況ではないだろうから、そのまま当てはめることができるものではないだろう。まったく同じというのではないにせよ、多少は通じるところがあるという見かたは成り立つ。国家や権力にたいして、表現をする人が迎合してしまうことによって、国家や権力のあり方をよしとしてしまうことになりかねない。

 表現する人が思想をあらわして作品をつくるとすると、それが一面のものになることがある。一面のものは、現実の多面さをあらわすことができていない。思想が一面のものになり、それによって作品がつくられると、ほかの面が切り捨てられてしまう。ほかの面を切り捨てることで、縮減されることになり、単純化されて、受けとりやすくなる。

 さまざまな作品で、さまざまな思想をもつことで、色々な現実の面をあらわすようにすることもできるが、そうしてしまうと、転向に転向を重ねるようなところがある。いざというときに、国家が悪いことをしようとしていて、それに加担してしまうおそれもないではない。そのときに、国家や権力に都合のよい思想をとっているかもしれないし、そうした思想をあらわした作品が国家や権力に利用されてしまうかもしれない。

 直接(ダイレクト)にあおり立てるようなものは、一面によるものだろう。そうした一面のものにたいして待ったをかけることができる。待ったをかけるようにするのは、直接で一面のものが直線によってつっ走ってしまうのを止めるようにするためである。表現の自由をとらせないようにするのではなく、待ったをかけて止めることで速度をゆるめようとするということである。

 アーティストやもの書きの人が思想をもつのはよいだろうし、それを作品にするのもよいだろうけど、アーティストやもの書きの人は社会の中にいるのだから、社会関係(パブリック・リレーションズ)をとることがあるのがのぞましい。表現や思想の自由を行使すると、他人に影響を与えるものだから、まったく影響を与えないというわけには行きづらい。負の影響というのもあるから、そこへの配慮があってよいのがある。どういう倫理観をもっているのかを示したり、一方的にならないようにして双方向にできたりするとよい。思想が硬直にならずに、自己修正がきいたほうが無難である。