客観として国がよいものであるとは言いがたい(あくまでも主観として言えるにすぎないものだろう)

 国を愛していると言って何が悪い。演奏会で歌手の人がそのように言ったそうなんだけど、このさいの国というのを、のぞましいものとして見ているものだとすると、そうではない見かたもできる。国をのぞましいとするのなら、真善美ということになるが、それとは逆に、偽悪醜として見ることができる。偽悪醜を愛するということになる。国や政治権力による不正義をよしとすることになりかねない。

 国を愛するというのは一つの見解であり、その見解がふさわしいものなのかを見ることができる。国を愛する(と言う)ことが駄目なのだというよりも、そうした見解をもつのはふさわしいことなのかというのをとり上げてみることができる。無条件でふさわしいものだとすることはできそうにない。条件つきのものであるということになる。

 国を愛するという一つの見解がふさわしいものなのかを見るのは、とくにおかしなことではないものだろう。人間には合理性に限界があるので、完全に正しい見かたをとるのはできづらい。あやまりをおかすのを完ぺきには避けられない。まちがっていることがあるから、そうであるかどうかを見ることがいる。絶対とはせずに、相対化することが必要である。

 客観として国はのぞましい価値をもっているとは言いがたい。主観としてそれぞれの人によるさまざまな価値のもち方がある。すべての人が国をのぞましいものと見なして、それを愛する(と言う)のだとすると、客観で絶対なものとなるが、現実にはそうはならない。客観で絶対なものであれば、少なくとも日本の全土をたった一つの見なし方がおおいつくすことになる。

 たった一つの見かたで日本の全土がおおわれるのは現実には成り立たないものであり、社会の中には対立や矛盾がおきざるをえない。対立や矛盾は避けがたいのだから、それをむりやりに解消しようとするとおかしなことになる。ものごとを単眼ではなく複眼で見ることができればよい。国を愛することであれば、それとはちがう愛さないという選択肢があったほうが、(愛するというのしかないよりは)判断がより適したものになりやすい。一元よりも二元のほうが多少は安定しやすい。愛さないということがあってはじめて愛するというのは成り立つのだから、愛さないことのほうがより本質的だということもできる。

 規範として、国を愛するようにしたり、愛することを語ったりするのがまちがいなく正しいものだとはできづらい。規範としては、愛するということがあってもよいし、そうでないこともがあってもよく、どちらであることもできるようであったほうがよい。それぞれの人が自己決定できたほうが、効用の総量は多くなるのが見こめる。閉じていないで開かれたあり方である。

 国を愛さないようにするべきだという規範があるとして、それは必ずしもまちがっているとは言い切れないものである。なぜなのかの理由があるとすれば、その理由を見て行くことができる。たとえすべての人がうなずけるものではないとしても、少なからぬ合理性があるのであれば、切り捨ててしまわないでよいものだろう。国を愛することをよしとするとしても、その逆の愛さないことに寛容であるのがのぞましい。それなりの合理性のある理由によるのであれば、まちがいであるとは言い切れないものであるので、愛さないことに寛容さをもつことができる。