日本は世界の中心だとは言えないのがある(世界の中心だと見てしまうと中華思想になる)

 日本をおとしめるのとは逆に、持ち上げてしまう。持ち上げるような報道をしても、それが本当のこととは言い切れないのがある。本当ではない報道をしているのであれば、偏向しているといってもさしつかえがない。

 偏向をしてまで日本のことを持ち上げるくらいなら、おとしめることになったとしても本当のことを報道したほうがずっと値うちがあるのではないか。これは人によってさまざまな見かたになるものではあるかもしれないが、個人としてはそのように見なしたいのがある。

 偏向をしてまで日本のことを持ち上げて報道をしているのを、色々なほかの情報とつき合わせてみれば、持ち上げて上げ底にしているものを差し引くことができる。それで差し引いたものが本当のことに近いということになる。わざわざそういった手間をかけさせるのは親切とは言いがたい。

 日本がかかえる負のことがらや、日本が置かれている厳しい現状などをさし示すことは、日本のことを不当におとしめることには必ずしもならないものである。それとは逆に、ほんとうはそうではないのにもかかわらず、あたかも日本が世界の中心でものごとを動かしているみたいなふうに見せかけるのは、それが本当にそうではないのだとすると、たんに見せかけで大げさに言っているにすぎない。

 負のことがらや、置かれている厳しい現状などを、見のがしてしまうのはのぞましいことではない。それらを見のがしてしまい、うまく行っているという効力感や有効感を報道するのだとしても、本当はそうではなく、限定された効力感や有効感であると差し引くことができる。もっとふみこめば、無力感をもつのがいるのがある。

 形式としては効力感や有効感があるようだが、内容としては無力感があるのだとすると、形式だけを報道してしまうとまちがうことになる。ちゃんと内容を報道してくれないと、本当のこととは言えそうにない。形式と内容がずれてしまっていて、形式だけをとり、内容がおろそかになってしまう。形式だけをもってよしとして、内容までつっこんでいないせいである。内実(内容)よりも、表面の効果(形式)をとってしまっている。

 無力感があるのだとすれば、それは一つの問題であるから、それをわかっていることで、ではどうするのかということが見られる。しかし、うわべの効力感や有効感を報道してしまうと、それをもってよしとしてしまう危なさがある。その危なさを避けるようにして、効力感や有効感を限定して行くようにして、本当はちがうのではないかというふうに見て行くのがのぞましい。

 効力感や有効感は陽であり、陽のところだけを報道するのはまずい。無力感という陰をとり立てるようにして、そこを報道することは値うちがある。ほんとうは力が全然およんでいなかったり、部分的に力がおよんでいなかったりするところをうまくとり立てられればよい。陽のところをとり立てるのは、目や耳には気持ちがよいが、その一方で、薬が毒になるというのがある。陰のところをとり立てるのは、口に苦いものではあるが、毒が薬になるといったことがのぞめる。絶対にというわけではないかもしれないが。