文科相ではなく、首相が、フランスで映画賞をとった監督を手ばなしで祝福するくらいでないと、若干ではあるが、監督に失礼なのではないか(それくらいでもよいのかなというのが個人的にはある)

 文化庁から補助金を受ける。それで映画をつくった監督は、フランスで映画賞をとった。そのことを祝そうとした文科相にたいして、監督は、公権力から潔く距離を保つとして固辞したという。文化庁からお金をもらっているのと、公権力から距離を保つのは、つじつまが合わないことだとして、一部から批判の声が投げかけられている。

 監督は、ときの権力にはおもねらない、という自分の気持ちを示したかったのではないかと察せられる。その気持ちは個人としてはよいものだととらえられる。ただ、文化庁からお金をもらっているというのが引っかかるから、そこにたいして批判の声が投げかけられているというのがある。

 映画とはちがうけど、学問や教育や研究をになう大学には、国からお金が補助として支払われている。国からお金が支払われているけど、大学に属している人は、国にたいして批判をしてはならないということはない。時の政権がまちがったことをしているのであれば、きびしい批判をしないほうが、かえって国にとってのちのちよくないことになりかねない。自分の判断によってということではあるが、その判断というのは、国からお金が支払われているからということとはまた別のことによってとるのがいる。そうでないと、判断が偏ってしまいかねない。

 映画というのは芸術でもあるだろうから、それには自律性というのが大事になってくる。自律性というのは、国や時の政権から距離をとることによる。距離をとることによって、批判をすることができるようになる。まったく距離が遠ざかってしまえば、無関係とか無関心になってしまうわけだけど、そうならないようでありつつ、関係や関心をもちつつ負の問題を表面にのぼらせることは価値があることである。

 文化庁からお金を払ってもらいはしたけど、公権力から潔く距離をとるというのは、ふつうだったら公権力におもねりかねないところを、そこをあえて公権力から潔く距離をとるという個性を示していると受けとることができる。いまの権力からは距離をとりたいということで、帰属(アイデンティティ)よりも個性(パーソナリティ)を重んじたということである。

 監督は、文科相からの祝意を辞したわけだけど、それとは別に(逆に)、政府は監督に祝意を示すようにするのはどうだろうか。それをしないことを、フランスの保守系のメディアは批判しているのがあるそうだ。なぜ政府は、フランスで映画賞をとった監督を祝福しないのかというふうに言っていて、その理由も述べている。映画の内容が、必ずしも政府の意に沿わないものであり、政府に都合が悪いことが理由だとしている。