作者の死を当てはめられるとすると、作品にたいして作者は外在的である、とできる(作者の死を当てはめないで見ることもできるだろうけど)

 右でも左でもない。軍歌をつくろうとしたつもりはほんの少しもない。日本のことを愛する心をたんに歌の歌詞にしただけである。作者の人はそう弁明していた。作者の人が、自分の作品について、こうであるというふうに言うとしても、それとは別に、文学で言われるテクスト理論を当てはめることができる。作者の死ということで、作者の人が作品について語っていること(作者の意図)を抜きにして、作品についてを見ることができる。

 作品を見てみると、ほかの少なくない人たちが言っているように、右寄りのものだという印象を受ける。国家主義になっていて、あおっているようなところがある。作品の内容はそうだけど、作者の人は作品について、右でも左でもないとしているし、軍歌をつくるつもりはまったくないと言っている。作品について作者の人が言っていることは、とくに右に寄ってはいなく、左でもあり中道でもありといったあり方だから、ねらいがもうひとつよくわからない。作品と、作者の人が言っていることを合わせると、色々なものがつめこまれているといったふうである。

 日本の学校の教育では、近現代の歴史を教えるのが十分にされていないと指摘されている。ほんとうだったら、近現代の歴史を十分にとりあげるようであるのがのぞましいが、そこにとり組む前に、定められた授業の時間が終わりになってしまう。それによって、近現代の歴史について、現実に根ざしていないような自由主義史観(歴史修正主義)の見かたがとられやすくなってしまう。

 近現代の歴史の正確な知識があるのかと言われると、そうとは言えないのがあるから、他人のことばかりをとやかく批判できるものではないのはある。歴史のとらえかたそのものが、何段階にもわたって主観が入りこんでしまうものだろうから、そこのむずかしさも無視できそうにない。見る者の主観が何重にも避けがたく入りこんでしまうと言われている。

 なるべく近現代の歴史をきちんとふまえられるようにできればよい。そうすることができていたほうが、きちんと後ろ(過去)をふり返られているから、それを生かした形で前を見ることができる。そうではなくて、あまり後ろ(過去)を見ることなく前だけを見るのだと、厚みのある前の向き方にはなりづらい。近現代の負の歴史をきちんとふり返ることができていればいるほど、前を向くのがのぞましいあり方になりやすい。過去への回顧と未来への前望が対応しているというのがあるから、日本がおかした近現代の負の歴史にきちんと向き合うようにするのができればよい。それがひいてはよりよい形で前を向くことにつながってくることになる。