自民族中心主義にならないようにするのと、ヘイトスピーチをしないようにするのは、方向としてはちがわないものである

 ヘイトスピーチはよくないということへの批判として、ヘイトスピーチをする。公園かどこかのベンチに、そうしたことによる落書きがされていた。この落書きは、日本を批判するのこそがヘイトスピーチではないかとか、日本を批判する他民族に力を貸すのは反日売国だ、といったような内容だった。

 改めて見ることができるとすると、たんに、公園のベンチにヘイトスピーチの落書きをする、ということにしかなっていない。まず、ヘイトスピーチをすること自体がよくないと言えるし、さらにベンチに落書きをするのもよくないから、二つともよくないことである。

 ヘイトスピーチはよくないというのがあるので、それを念頭におかないようだと、ヘイトスピーチというよくないことをすることから脱しづらい。ヘイトスピーチという内包(定義)があり、それには、他民族への差別をするのがある。そのヘイトスピーチの外延(集合)に当てはまるようなことをすると、たんにヘイトスピーチをしたということにしかならない。

 さしあたっては、ヘイトスピーチをなるべくやらないようにしようというのがある。される当事者としてはもっとさし迫っていることだろうから、やってはならないこととして法で定めるのがあってよい。それについては賛否が分かれるかもしれないが。