嘘をついてしまう構造があるというよりは、むしろ原理がない(共通了解としての原理がないから、自己了解だけになり、他と話が通じない)

 首相が嘘をついたのは、構造による。その構造というのは囚人のジレンマによるものである。評論家の人はそう言っているのがある。囚人のジレンマの構造があるために、首相は嘘をつくことになったとしているけど、そうではない見かたもできそうだ。(囚人のジレンマの)構造があるのとは別に、原理がないのである。原理はないけど、神話はある。

 首相は嘘をついたという文脈の中での話であり、ここから先の話は、嘘をついていないという文脈はとらないようにできるものとすると、嘘はよくないという原理が弱くなったために、首相は嘘をついたとすることができる。嘘をついたとしても、それを本当のこととして、自分の中で記憶を組みかえてしまう。虚実の区別がいいかげんになる。自分と、自分を支持してくれる人たちのあいだではそれは通じるかもしれないが、そうではない人たちのあいだでは通じないものである。

 首相と、首相を追求して批判する野党のあいだで、話がうまくかみ合わない。野党から聞かれたことに、首相はきちんと答えていない。関係のないことをしゃべる。要を得ないことを言う。なぜこうなってしまうのかというと、首相が原理を軽んじているからなのが一つにはあるだろう。自由民主主義の原理をいちじるしくないがしろにしている。

 自由民主主義の原理である説明責任(アカウンタビリティ)を果たさないでいる。おかしいではないかという批判の呼びかけに応じていない。批判による呼びかけに応えるという責任を果たしていないのは、責任をとらないでもよいとすることである。無責任になってしまう。

 森◯学園と関係していたら総理と国会議員を辞めると言っておきながら、じっさいには辞めないということから演繹している。それで、虚偽答弁や公文書の改ざんにまでことがおよんでしまった。さまざまな状況証拠や記録による帰納をいまだに無視している。きわめて不自然だ。

 囚人のジレンマの構造とは別に、首相や政権与党は、独話の構造によっている。そのために、対話がほとんどまったくといってよいほどとれていない。そこから嘘が出てきてしまうようになる。自分たちが言っていることはほんとうであり、それがたとえ虚偽答弁になろうが公文書の改ざんに行きつこうが、かまわないのだというふうにしている。

  自己了解による独話の構造は、共通了解による対話のあり方をとらないことにつながる。独話の構造は閉じてしまうものである。開かれたあり方ではない。独話で閉じていてもかまわないではないか、という意見があるかもしれないが、開かれていないと、本当のことがどうなのかを見ることにはつながりづらい。本当のことがどうなのかをさぐるには、自と他のあいだをともに見て行くことが欠かせない。自だけにあるものではない。他という媒介にまともに向き合うようにすることがいる。

 首相が嘘をついたというのは一つの結果と見ることができる。その結果がおきた原因を見てゆかなければならない。原因を、囚人のジレンマの構造に当てはめるのはふさわしいことなのだろうか。または、野党のきびしい追求のせいだというふうにするのが正しいことなのだろうか。そのように見なすのは必ずしも適したこととは言えそうにない。なぜかというと、そう見なしてしまうと、首相が嘘をついたことをいたずらに許してしまうことになるし、首相や政権与党が自分たちを防衛するのをよしとしてしまうことになる。首相や政権与党が自己防衛するのは、首相が嘘をついたことの原因をたしかに探ることにはつながらない。

 首相が嘘をついたのを一つの結果として見ることができるとすれば、それは虚偽答弁ということであり、それがひいては公文書の改ざんにまで行きついてしまったのがある。それらは実証としておきたことであると言える。おきたことを、規範として見てみることができるとすると、おきるべきではないことがおきたことはまちがいがない。そのきっかけとなったのは、首相が嘘をついたことであるのにほかならない。ここらへんが、いいかげんになってしまっていて、うやむやになってしまっている。首相や政権与党が、おきたことの原因を自分たちにあるとして引きうけるのをかたくなにこばんでいるせいである。

 囚人のジレンマの構造とは別に、首相が自分の中でのジレンマに勝つことができなかったというのがあるのではないだろうか。囚人のジレンマの構造において、首相は自分が他とのかけ引きに勝とうとしたことで、自分の中でのジレンマには勝つことができなかった。自分の中でのジレンマに打ち勝てなかったというのは、嘘をつくという誘引にしたがって動いてしまったということである。ごまかすという方へ行ってしまった。

 嘘をついたりごまかしたりするのではなくて、首相は自分の中でのジレンマに勝つべきではなかったのだろうか。または耐えるべきだっただろう。囚人のジレンマの構造で、他とのかけ引きにも勝ち、自分の中でのジレンマにも勝ったのだというのは、ちょっと考えづらい。囚人のジレンマの構造は首相が嘘をつくもとだと、評論家の人が言っているのがある。