日本の敵は、反日日本人である、の文句に見られる危なさを見てとることができる

 日本の敵は、反日日本人である。自由民主党の議員は講演会を開いたさいに、パンフレットにこの文句を記していた。まるで戦前や戦時中に戻ったようなものであり、反動によるものだというふうに見なせる。

 日本が戦争に負けたことで得た教訓や反省の一つとして、国家の公を主とするのはよくないというのがあげられる。国家の公が幅をきかせることで、まちがった方向に進んでいってしまった。

 国益を重んじてしまうと、国家の公が幅をきかせることになってしまう危なさがある。自民党の議員の人が言っている日本の敵というのは、国益に反する者ということだろうけど、そうした者を敵と見なして排斥しようとすることで、国家の公が幅をきかせることに手を貸すことになる。これでは、戦前や戦時中に日本があやまちをおかしたことの教訓や反省がまったくといってよいほど生かされていない。

 日本の国家による公は、領域の公であるとされる。上下の関係による不平等なあり方である。社会の中にいるさまざまなちがいをもった人を、ともに生きて行く仲間として対等にむかえ入れるようにはしづらい。上にはあまり逆らわないで、平準化されて画一であるような同質さがよしとされがちである。それによって、ともすると同質さからこぼれ落ちている人を、寄生していると見なして、うとむようになる。それがこうじると、敵と見なすようになる。

 国家の公が幅をきかせてしまわないようにして、いかに抑えをきかせられるのかをとれればよい。そうではなくて、国家の公が幅をきかせることに加担してしまうのであれば、個人の私を押しつぶしてしまうようにはたらく。個人の私を押しつぶさないようにするためには、国家の公への批判というものがいましめられないで、さかんに行なわれるのを許すようであるほうがよい。

 なぜ、国家の公をよしとするのではなくて、それへの批判が投げかけられないとならないのかと言えば、一つには、戦前や戦時中に日本がおかしたあやまちを再びくり返してはならないのがある。負のあやまちは、失敗情報として知識化されるのがのぞましい。そうでないと負の経験が生かされないことになる。失敗情報というのは変質しやすく隠されてしまいやすいと言われる。それを防ぐためには、都合よく変質させてしまわないようにして、隠さないようにしなければならない。

 国家の公をよしとしてしまうのはのぞましいことではない。その理由として、何々への自由である、積極的自由になってしまうからなのがある。これは、自由とは言いながらも、実質の自由ではないものである。実質の自由ではないというのは、何々への自由をとってしまうと、何々からの自由を損なうことになる危なさがあるからである。

 何々への自由の、何々のところに国家をあてはめれば、国家への自由ということになるが、国家への自由というのは実質の自由を意味しない。あくまでも、一人ひとりの個人に自由があるのだけなのがほんとうである。国家の公は、個人の私による自由を損なわないようにしなければならない。国家の公よりも個人の私(の自由)がより優先されることがのぞましい。国家の公を経由しないで、個人の私の自由がじかに高まるようにできれば、まちがいが少なくてすむ。