憲法九条では国は守れないというのとは別に、憲法九条は国家権力にたいして説明責任を求めるという効用があると言われる(必要最小限の実力にかぎるという歯止めをかけられる利点がある)

 憲法を守ろう。憲法九条によって平和を築いて行こう。東京都の新宿で行なわれたデモでは、そうしたかけ声が投げかけられていた。そのデモをやっているところに、反対の説を言う人たちが車(街宣車)でやってきて、一触即発になりかねないことになった。招かれざる客みたいである。反対の説を言うのは右派の人たちであり、デモをやっている人たちに向けて、憲法九条で国が守れるのか、そんなのはおかしいではないか、といったような声をぶつけていた。

 憲法九条によって平和を築こうということでデモをやっている人たちと、そんなのはおかしいという人たちが、お互いにぶつかり合いになりかねない。じっさいには、そのあいだに警察官がいるので、ぶつかり合いになることにはならずにすむ。

 憲法九条で平和を築くというのは、はたしておかしいことなのだろうか。憲法九条を守ろうということでデモをやっている人たちに、それはおかしいということで反対の説を直接に言いに来た人たちの言い分もまた、必ずしもまちがったものではないというのはある。この二つのあいだには、なかなか折り合いをつけるのがむずかしい。憲法九条を主として平和を築こうとするのは、集団安全保障(collective security)のあり方であり、自由主義による国際協調主義である。いっぽうそれをおかしいことだとするのは、個別的安全保障(national security)のあり方と言えるだろう。国家安全保障である。

 お互いによって立っている理論が異なっているから、そこから引き出される現実にたいする見かたがちがっている。中立の見かたとは言えないのはたしかだが、個人としては、憲法九条による集団安全保障のあり方はそこまでおかしいこととは言えそうにないのがある。それなりに説得性がある。

 国家安全保障によって、国の軍事力を高めてゆこうとするのは、必ずしも国の安全性を高めることにはつながりそうにない。国の軍事力の高さと、国が安全であることは、まちがいなく相関するものだとは言いがたいという説がある。軍事力が高ければ、戦争になったときにまちがいなく勝てるとは言えないそうなのである。うら返せば、軍事力が低くても、必ずしも戦争になったときに負けるわけではない。

 大国間における力の均衡(バランス・オブ・パワー)というのは、必ずしも築かれることが保証されているものではないだろう。歯止めなき軍備の拡張につき進まない保証はない。戦争をすることは合理的なことではないので、それを避けることに合理性があるという見かたが成り立つ。軍事力を背景にして、それにものを言わせて言うことを聞かせるのは、お金持ちがお金にものを言わせて言うことを聞かせるようなのにほんの少し似ているのであり、お金が無くなればただの人であるから、必ずしも説得性は万全ではない。ソフトパワーということで、文化の力によって対話の道をさぐって行くのができればのぞましいのではないかというのがある。そんなに易しい話ではないかもしれないが。