責任をとるかとらないかは別にしても、おきたことがどうだったのかが十分に明らかにされないと、個人的にはとうてい納得することはできない

 自分で命を絶った人はどうなるのか。福田康夫元首相は、会見において、そのように言っている。森◯学園にかかわっていた財務省の役人(元事務次官)が、不起訴とされることが決まった。大阪地検特捜部はそう判断したわけだけど、これでは、森◯学園のことで負担を押しつけられた末端の役人の人が自殺してしまったことが浮かばれない。この末端の役人の人は、公文書の改ざんをむりに引き受けさせられたと見られている。遺書にそう記されていたそうだ。

 福田康夫元首相は、会見を開いて、その中で、自殺をした役人の人の浮かばれなさを説いていた。これはもっともなことである。大阪地検財務省の役人(元事務次官)を不起訴としたことで、それでものごとが片づいたとは見なすことはできづらい。大阪地検にできることは限られているのであり、十分に調べをする手ばなしの特権をもっているわけではないから、ごく限定されたところにおける判断だと見なせる。

 公文書の改ざんをさせられた末端の役人の人は、自殺をしてしまったわけだけど、これは決してゆるがせにすることはできないことである。その一つのわけとして、この末端の役人の人は、自殺をしてしまったけど、これは自殺ではなく他殺であると見ることができる。社会においておきる自殺は、社会の中で殺されたのだという見かたが一つには成り立つ。組織の中で汚れた仕事をむりに引き受けさせられて、それをいちじるしく苦にしていたのだから、他殺がおきたというふうに見られる。

 作家の安部公房氏は、このように言っている。以下は引用である。
 私の考えでは、自殺は要するに特殊な他殺なのである。言葉をもち、思考力をもっているという人間の特殊性を利用した、一種の他殺なのである。[…]ただ加害者の身許がはっきりしない他殺なのである。(『安部公房全集第五巻』「十一番目の自殺者」より)

 この他殺がおきたことは、不正義であるのだから、軽んじてしまってよいものだとは言えそうにない。これを軽んじてしまうのはおかしいというふうに言いたい。そう言うのは、関係のない第三者による偽善にほかならないと言われてしまうかもしれず、そうしたところもあるかもしれないが、一人の人が自殺してしまった(実質としての他殺がおきた)のは不正義であるという点はゆずりがたい。どうしてそうなったのかをきちんと調べて、ことのいきさつを明らかにする。森◯学園についてのきちんとした真相の解明はされなければならない。

 一人の人の自殺というのは、他殺でもあり、それは不正義であるので、おきたことを重んじて調べを進めることの理由になるはずだ。この理由よりも、もっと重んじなければならない何かほかの思わくでもあるのだろうか。もしそうしたことがあるのだとしても、一人の人が命を絶った(命を奪われてしまった)ことを重く見て、それについての調べを進めて、おきたことを明らかにする理由を軽んじるのはちょっとおかしいし、この理由を重く見ないことのわけが納得できづらい。

 一人の人が命を絶っても(命を奪われてしまっても)、とくにかまわないというのなら、それには賛同することはできない。とくにかまわないのではないというのなら、もっと焦点を当てるべきところに焦点が当てられなければならないはずである。うわべの秩序を保つことよりも、秩序のために不当に犠牲になり、個に暴力が振るわれたうたがいに焦点が当てられればよい。そのうたがいに焦点を当てるにせよ、当てないにせよ、うたがわしいのは濃厚なのだから、秩序(政権与党による秩序)は少なからず汚れてしまっているのはある。個の不当な犠牲によって築かれたうたがいの強い秩序だ。

 政権与党にとっての効用は、すなわち国民みなにとっての効用ではないはずである。政権与党にとって効用が高いことは、政権与党にとっての正義ではあるかもしれない。しかし、それによって犠牲になってしまう人が生じるとして、その犠牲はしかたがないことだとは見なしづらい。犠牲はやむをえずとしてしまうのは、平等が損なわれているのをあらわす。不平等になってしまっている。これは差別につながる危なさがある。

 だれも犠牲にはならず、みなが平等になるようにするのがのぞましい。理想論にすぎないものではあるかもしれないが、それにしても、さまざまなことが自己責任として片づけられてしまっているのはあり、人々が等しく生存を保てるようにはなっていないのはある。だから安心ができづらく、不安をもたざるをえない。この点については人によってそれぞれ感じ方がちがってくるかもしれないけど、組織の中にしばりつけられてしまうのではなくて、そこから離れるのがもっと簡単にできるようになればよい。