政治でとり沙汰されている問題と、それが一年以上も引きつづいてしまっている問題と、二つをそれぞれに見ることができる

 政治でとり沙汰されていることが、いっこうに片がつかない。一年以上も引きつづいてしまっている。日本とはちがいアメリカでは、もうちょっと速度が速く片づいているのがある。テレビ番組でそういった意見が言われていたが、これは同じ番組に出ていた別の出演者から反論を受けていた。アメリカでは、かなり徹底して追求がされていたのがあるのだということである。

 森◯学園や加◯学園の問題は、一年以上も引きつづいてしまっていて、いまだにきちんと片づくめどが立っていない。そうであるのだから、そろそろこのへんでやめにして、もっとほかの重要なことがらをとり上げて行くようにしよう。そうするのだとすれば、それはそれで合理的ではあるかもしれないが、必ずしもうなずけるものではない。待ったをかけてみることができる。

 森◯学園や加◯学園のことは、それ自体が一つのゆるがせにできない問題ではあるが、それとは別に、それらがなぜ一年以上もずっと引きつづいてしまっているのかも、一つの問題として見ることができる。引きつづいてしまっていることを問題として見ることができるのがあり、そう見なすことによって、言葉はちょっと適していないかもしれないが、一般の問題を解決するための練習と見なすことができる。

 一般の問題を解決するためには、一つには、現象と原因をとりちがえないようにしなければならない。一年以上も引きつづいてしまっているのは現象にすぎないし、野党が一方的に追求しつづけているのもまた表面の現象にすぎないものだろう。それらの現象を見て判断してしまうのはのぞましくない。

 きちんと原因とできるものまでふみこんで、それから判断をするのでも遅くはない。そのためには、一つの文脈だけによるのではなくて、さまざまな文脈を持ち替えて見て行くことがいる。原因を、野党だけに当てはめてこと足れりとするのでは不十分であり、当然のことながら、主たる当事者である政権与党に原因を当てはめるのは欠かせない。

 政権与党が言っていることを、そのままうのみにしてしまうのだと、一年以上も引きつづいてしまっていることのわけをとりちがえてしまいかねない。そこに注意することがあってよい。そうでないと、戦時中の大本営発表のようなことになる。政権与党が言っていることは、すべてきちんと検証されていないことであると見なすのがふさわしい。たんなる仮説にすぎず、結論とはほど遠い。政権与党が言っていることとは別に、問題の解決における真の結論とできるようなことは、さまざまなことをふまえて総合してとるようにすることがいる。

 森◯学園や加◯学園そのものに加えて、それらがなぜ一年以上も引きつづいてしまっているのかもまた、一つの問題と言えるのであり、その問題を解決するためにどのような見かたがふさわしいのかを改めることができるものだろう。政権与党は、これらのことについて、きちんとした対応ができているのかといえば、それについては断じて否というふうに個人としては見なしたい。まともに向かい合わず、逃げ腰であり、自己防衛にひた走っている。

 政権与党は、前向きの正しさばかりをとり、後ろ向きの正しさがまったくといってよいほどとれていない。前向きの正しさとは、自分たちは正しいというはたらきかけだ。それをするいっぽうで、後ろ向きの正しさはとれておらず、それをするのをこばんでいる。後ろ向きの正しさとは、ものごとをきちんとふり返り、どうだったのかを改めて見ることである。歴史における自由主義史観のように、自分たちに都合のよいように自由に歴史をつくり変えてしまっているようだ。それゆえに、残されている公文書などの記録をいちじるしくないがしろにしている。これはあるまじきことである。

 政権与党は、きちんとした問題への対応ができていないのはおろか、むしろ問題を次々に増やしてしまっているしまつである。きわめておそまつだと言うしかない。そうして増えていった負のものごとが複合してしまってふくらんでいるのが今の現状だと、個人としては見なしたいのがある。ほかの人には、またもっとちがった見かたがあるかもしれないが(そちらのほうが正しいのかもしれないが)。