事実を言っているというのを、そのままうのみにするのに待ったをかけられる

 事実を言っている。それのどこがいけないことなのか。なぜ批判されなければならないのか。事実を言っているのだから、批判されるいわれはなく、いけないことはまったくないというわけである。

 事実を言っているということで、だから有無を言わさずに正しいとはなりづらい。事実を言っているのだとしても、それはものごとのある一面しか言っていないのだとできる。ある一面についての事実を言っているとして、その一面をほんとうに正しくとらえているとは必ずしも言えない。その一面を正しくとらえないで、それを事実だと言っていることがある。

 かりにある一面をほんとうに正しくとらえて、それを事実だと言うのだとしても、それでものごとのすべてを言いあらわしていることにはなりづらい。ものごとにはさまざまな面がある。そのそれぞれの面を見て行くことがいる。そうしないと、一斑を見て全豹を卜(ぼく)すことになってしまう。そうなるのを避けるのがのぞましい。性急に一般化してしまうのを避けるようにする。

 事実というのは、ある一面をとらえているのだとしても、そのほかの面を切り捨ててしまっていることがある。なので、抽象化してしまっていることがある。抽象化することで、多くの面を切り捨ててしまっているとすると、切り捨てられた面が隠ぺいされて抹消されることになる。切り捨てられた面に現実が映し出されていることがあるから、そこを見て行くことがないと、現実をとりこぼしてしまいかねない。

 事実を言っているというのは、ある一つの発言なわけだけど、この発言が正しいのかまちがっているのかを見ることができる。もしまちがっているのだとすれば、事実ではないわけである。事実を言っていないのである。その点については疑うことができるものである。

 ほんとうに事実であるのなら、どこからも少しも異論が出てこないような客観のものだろうけど、そうではないのであれば、反証(否定)ができるところがある。開かれているというわけである。

 事実を言っているというのは、価値を言っていることでもある。事実には、自分がよしとしている(または悪いとしている)価値がしみこむ。たとえば、反日というのがあるとして、これを事実というのはできづらい。そこには少なからぬ価値が入りこんでいることは疑いをいれない。価値を入りこませないと、反日というのは成り立ちづらい。

 人間は神さまではないので、合理性に限界がある。絶対の事実を言うのはできづらい。相対化することがいる。そうでないと、教条主義におちいる。それを避けるためには、修正がきくようにするのがのぞましい。さしあたっての事実というくらいにとどめておくのが無難である。人間がもつ認知はゆがみやすい。事実を見るさいに、何らかの解釈や先見が関わるのがある。虚心に見るのはできづらい。こうにちがいないという思いが先行していて、それに見あうような情報をさがす。中立のところから情報をさがすことはあまりない。

 事実を直接にさし示すことはできるのかというと、それはむずかしい。事実をそのままの形で開示することはできないのがある。何かを開示することは、何かを秘め隠すことになる。言葉によって何かを言うのは、直接に事実をさし示すことにはなりづらい。言葉というのは媒介であり、それによって仲立ちしているのであり、ものごとを直接に示しているのではなく、ずれがおきる。

 もし目の前に何かがあるとして、その何かを何かであると言うことによって、記号化されることになり、記号というのは間接性をもち、仲立ちになっている。何かそのものではないし、おきたことそのものではない。直接性と媒介性(間接性)の二項対立があるとすると、直接性はとりづらく、すべては媒介性(間接性)によっていると言われている。すでに何かに媒介されているというのがある。気づかないうちに、何らかのイデオロギーによる効果がはたらいている。いやそんなことはない、という声もあるかもしれないが。