働き方をどうするのかと、経済や国についてのことは、分けて話し合うのがよいのではないかという気がする(いっしょにしてつなげてしまうと、論点がぶれてしまう)

 経済を強くする。国家が沈まないようにしないとならない。経済学者の人は、テレビ番組の中で、こうしたことを言っていた。働き方改革についてを話し合う中でのことである。

 働き方改革では、労働者の働き方についてを話し合うのだから、そこになんで経済を強くするだとか、国家が沈まないようにするだとかという話が出てくるのだろう。それはそれで別に話し合えばよいことだという気がする。働き方についての話に、経済を強くするとか、国家が沈まないようにするというのをからめてしまうと、おかしなふうになりかねない。

 経済を強くするとか、国家が沈まないようにするために、働き方をそれに見あうようにしないとならないのだろうか。もしそうであるのだとすると、労働者が犠牲になるような働き方もいとわないということになる。これはおかしいことだと言わざるをえない。労働者が犠牲になるような働き方は、正しいことだとは言いがたい。労働者が少しでも犠牲にならないような働き方をどうするのかというふうにできればよい。現に、犠牲になってしまっている労働者は少なくないのがある。

 欧米ではこうだから、日本でもこうするというさいに、気をつけなければならないのは、欧米では個人主義がとられているが、日本では必ずしもそうではないという点がある。日本では集団主義が強く、個が独立しているとは言いがたい。それが過労死の問題などにつながっているような気がする。

 経済を強くするとか、国家が沈まないようにするのは大事なことなのだろう。そうではあるが、あまりその点を強く言いすぎると、おどしのようになってしまいかねない。大切にできればよい点として、豊かさとゆとりというのがあげられそうだ。それらの反対である、貧しさとゆとりのなさを避けられればよい。

 豊かさとははたして何だろうか。国が富むことなのだろうか。必ずしもそうであるとは言えそうにない。豊かさとは、ゆとりが持てることであり、分け合うことができて、手をとり合うことができることなのではないか。きれいごとではあるかもしれないが。お金が増えればとか、物が増えればといったこともよいけど、そこを目ざすのが適したことなのかというのは改められる。

 経済学者の人は、労働者の働き方の自由や多様さはすでにあると言っているようだけど、そのいっぽうで、経済を強くするだとか、国家が沈まないようにしないとならないとかとも言っている。これはちょっと変なことである。経済を強くするとか、国家が沈まないようにするのを持ち出すのは、労働者に少なからぬ犠牲を求めることであり、働き方の自由や多様性を二次的なものにすることである。労働者は、経済や国家のための手段となるのをあらわす。そうではなく、労働者が人として目的となるようなふうにするのであれば、働き方の自由や多様性をとれることにつながる。

 労働者の働き方をよくするためには、労働者が手段におとしめられるのではなくて、人として目的となるようにできればのぞましい。いまのところ、まったくそうなってはいなくて、経済や国家のための手段に労働者がなってしまっている。そこを改められればよい。労働者を手段におとしめるのは、人として見なすのではなく、物のようにしてあつかうことをあらわす。人が物のようになってしまっている。人を人として見なせるようにできれば、働き方が改まることが見こめそうだ。

 経済学者の人は、労働者に自由があると言っているようであり、そのいっぽうで、労働者にたくさんの時間をかけて働かせるようなことをよしとしてしまっているようである。労働者に自由があるというのは、働き口が色々と選べるのとともに、なるべくたくさんの賃金が支払われて、なおかつ労働時間が少ないのでないとならない。それが自由であるということを意味する。

 労働にかける時間が長いのは、不自由であるのをあらわす。労働にかける時間が短くなるのが、労働者が自由になることだろう。働く時間を短くするかわりに、貧乏にもなってしまうというのは、自由であるとは言えない。生きてゆくのに必要な需要である衣食住の基本の必要(ベーシック・ニーズ)をしっかりと満たせたうえで、なおかつできるだけ労働の時間が短くなるのがよい。そうすれば、それぞれの人がどうしたいのかの選択肢を複数にできる。幅が広がる。

 労働について負の価値づけをするのはまちがいなく絶対に正しいとは言えないし、世間の通念からはずれているかもしれないが、負の価値づけによる見かたをとれるのはあるだろう。負の価値づけをするのは、労働にたいして価値をもたせないことである。労働は真や善や美ではなく、偽や悪や醜でもあるので、真や善や美に仕立て上げないようにしたい。真や善や美に仕立て上げて、正の価値づけをすることもできるだろうけど、それをやってしまうと、極端な話では、死ぬまで働くのが正しいみたいなことになりかねない。

 労働は正の価値をもっていて、真や善や美であるような美徳なのかというのは、疑うことができるものである。労働が正の価値をもったのは、とりわけ近代に入ってからのことであるという。近代に入るまえの前近代では、労働にそこまでの正の価値づけがされていなかったと言われ、また労働は複合的な営みだったという。労働が、労働以外のほかのことでもあった。しかし近代では、そうした複合のあり方はとられず、無味乾燥のたんなる働くことになった。労働をすることが正しいことであるとされ、それが自然なことであるという神話作用がはたらく。しかし、時代がちがえば、労働はさげすめられていたこともあるのだから、普遍で自然なものとは言えそうにない。