贈収賄は、関係ということの部分集合だと見なせる(贈収賄を否定するだけでは、関係を否定することにはならない)

 私や妻が関係していたとすれば、総理大臣も国会議員もやめる。首相はそう言っていたが、さいきんになって、これは金品の受けわたしの贈収賄のことだったのだと言っている。

 なぜあとになって、関係ということを、贈収賄だとするようになったのか。それは、もともとが、ふっかけていたからであるのにほかならない。もともとふっかけていて、はったりをかましていた。もしそうでないのであれば、あとになって、贈収賄のことであるとあとづけでつけ足すようなことはしないものだろう。

 贈収賄を否定することが、関係を否定することの十分条件だと言うことはできそうにない。贈収賄を否定すれば、関係を否定したことになるのではないのだから、十分ではなく不足しているのである。もし、不足しているのではなくてそれで十分なのだとするのであれば、関係ということを贈収賄にすり替えていることになってしまう。すり替えたとしても、関係から贈収賄へというふうにならないで、視点が二つになっただけである(視点が一つ増えただけである)。贈収賄という一つの視点を否定しても、関係というもう一つの大きな視点がまだ残っている。

 客観で見て、関係イコール贈収賄という等式は成り立つとは言いがたい。もしこの等式が成り立つのなら、贈収賄と言って、すなわち関係を意味するのでないとならないが、そうはならないものだろう。イコールではないからである。イコールではないのだから、場合分けが成り立つ。贈収賄はないが、関係はあるというのができる。贈収賄を否定しても、関係を否定したことにはならず、十分条件を満たしてはいない。

 関係ということを、あとになって、贈収賄であるというふうにするのは、新しい判断をしたことをあらわす。白と言っていたのを、新しい判断によって、黒と言う。白と言っていたのが、新しい判断によって、黒とするのだと、そのあいだのつながりがとれなくなる。矛盾してしまうわけである。この矛盾について、それを引きおこした張本人である首相には、しっかりと説明する責任があるし、なぜ新しい判断をしたのかについての説明をすることもいる。

 新しい判断をすると、前に言ったことをくつがえすことになる。前に言ったことをくつがえすのがはたして許されるのかというのを見なければならない。くつがえすのが許されるのだとしても、いい加減なふうにしてしまうのはよいことではない。きちんとした理由をあげて、そのうえでみんなにわかるような形で行なうようにする。前に言ったことによって、虚偽答弁や公文書の改ざんや人による犠牲がおきてしまっているのがあるから、そうかんたんに今になってくつがえすことが許されるのだとは見なしづらい。

 前に言ったことは、ほんとうはこういうことだったのだと言ってしまうと、問題がおきてくる。あいだに少なからぬ時間が経ってしまっていて、時間の開きがあればあるほど、損失がおきてくる。変えることにともなう損失である。ものごとというのは、時間が経ってすぐのときほど変えやすく、時間が経つほど変えづらくなるのだから、あるていど時間が経ってしまったものを変えようとするのは不合理になることが少なくない。そこをあらかじめ見こさないといけないし、それを見こさないのはちょっとおかしい。

 あるていど時間が経ってしまってから、ほんとうはこういうことだったのだと言うのだと、またもとの地点までさかのぼらないとならない。やり直すことがいる。いままでに費やされた労力があり、またやり直す労力がかかる。それとともに、もうさかのぼることができないのがある。もととなっていることを変えるのをあらわすのだから、もととなっている地点までさかのぼることができるのはあるが、そのいっぽうで、過去は変えようがないというのがあるので、もうもとには戻ることはできない。虚構の架空のつくり話ではないのだから、タイムスリップするようなことはできないので、おきてしまったことについては受け入れることがいる。おきてしまったことのもとになったことも受け入れることがいる。不可逆なのであり、不回帰点(ポイント・オブ・ノーリターン)が形づくられている。