大学による相対化の営みをわかったうえで批判を投げかけるようにするのはどうだろう(尊重や尊敬するようにして、軽べつするのを避けられればよい)

 大学による一部の文化系の研究を、反日であるとする。自由民主党の議員はそうした見なし方をしていて、反日の研究に税金が使われるのはおかしいというふうに言っている。税金をきちんとした使い方に改めるのはよいことだろうけど、反日の活動だから税金を使うべきではないとするのにはうなずきづらい。

 もともと、大学の成り立ちはどういうものなのかを見ることができる。これには諸説あるのかもしれず、またきちんととらえられているとは言えないかもしれないが、一つには、単一の見かたになるのを避けるというのがある。

 単一の見かたというのは、宗教によるものである。宗教による見かたである、単一かつ絶対となるのを避ける。単一や絶対の見かたをとると、独断になってしまう。独断は偏見を生む。反日というふうに見なすのは、独断と偏見になってしまっているのがあるので、それを避けるのがのぞましい。

 何でもかんでも相対化してしまうことについては、批判を投げかけることができるのはあるけど、そのいっぽうで、単一かつ絶対の見かたにならないようにするために、相対化して行くことには意義があるというのがある。反日だという決めつけについて、それを相対化することがあるのがのぞましい。

 大学の成り立ちとして、単一かつ絶対の決めつけをとらないようにしていましめるのがあるのだから、それをうながすようにする。うながすのではなく、邪魔をしてしまうのであれば、近代から前近代に逆行することになり、時代錯誤(アナクロニズム)を呼びこむ。退行してしまうことになる。

 悪く言ってしまうかもしれないけど、幼稚園や保育園ではないのだから、できるだけ幼稚にならないようにして、大人としての限定した合理性をおたがいにもつ。万能の合理性だとはしない。そのうえで、おかしいところがあれば、全否定するのではなくて、部分的に否定するのはあってよいものだろう。とんでもなくおかしいというのであれば、全否定せざるをえないかもしれないが、とんでもなくおかしいものというのはそうそうあるものではないし、できるだけ慎重であるようにして、人または人々を否定するのではなく、おたがいの判断や仮説をやり合うようにできればよい。

 判断がおかしくなってしまうのは、色々なことによるけど、一つには、事大主義によるのがある。国の権力者を正しいものだとすることで、大に事(つか)えるようになり、おかしくなってしまう。判断がおかしくならないようにするためには、事大主義にならないようにすることがいる。

 国の権力者が言っていることがまちがいなく正しいということにはならないのだから、事大主義にはならないようにしたほうがよい。事大主義をとるのだとすれば、反日の活動はおかしいとなるかもしれないが、その見なし方とは異なる見なし方もとれる。ある見なし方について、その反対となる見なし方をとれる。

 反日の活動はおかしいという見なし方を絶対化してしまうと、教条主義におちいる。そうではなくて、修正主義によっておたがいの自己修正をうながす。対話のあり方をとるようにすることで、相対化しやすくなる。独話だと絶対化になりやすい。大学による相対化の営みというのは、独話ではなく対話によるものであり、対話の有用さをとることだろう。対話の有用さというのは、(文化系の)学問の有用さのことなのではないだろうか。それを否定してしまうのであれば、さまざまなことに支障がおきてしまいかねない。

 対話や議論をしないで、性急にことを運ぼうとしてしまうと、ものごとを言い切って斫断(しゃくだん)することになる。世の中のたいていのものごとは、かんたんには割り切ることができないものが多いから、決着がつかないものが多い。それにむりやりに決着をつけるために言い切ってしまうのだと、対話や議論がとれなくなる。急進主義をとることになれば、最短距離を行くことになるが、そうではなくて、最長距離をとるようにするのがあってよい。最長距離というのは言いすぎだとしても、最短距離を行くのを避けるようにして、それに待ったをかけるゆとりをもつことはいるだろう。