見解の相違というよりは、価値判断の相違といえるだろう(特殊な偏向した短期の価値判断と、一般の長期の視点による価値判断である)

 さまざまなことがとり沙汰されている。国会での政権与党による虚偽答弁や、公文書の改ざんや、上の者が責任をとらないで下の者に押しつけるあり方などである。これらのことについて、財務相は、見解の相違であると言っていた。財務相は、見解の相違と言っているけど、この見解には個人としてはうなずきづらい。そんなことで片づけてしまってすむものではないだろう。

 財務相が言うように、見解の相違があるのだとすることもできる。いまは、相違がありすぎることが問題になってしまっている。なので、相違があるというよりは、相違がありすぎると言うのがふさわしい。そこを何とかしなければならない。

 見解の相違があるのを見てみると、二つの見解のうちで、どちらがより合理的なのかを見ることができる。それについてを話し合うことがいる。それが議論をするということであり、たんに見解の相違があると言うだけでは、話し合いにもなっていないし、議論にもなっていない。

 とり沙汰されていることの真相の究明にとり組むのはなくてはならないものであり、そこについて見解の相違があるようではおかしい。それについては見解が一致していないと、話し合いにもならないし議論にもならない。いまは、それについての見解がぜんぜん一致していない状況だろう。なのでものごとがうまく進んでいない。

 政権与党は、自由主義の観点をふまえて、反転可能性や入れ替え可能性をとるようにするのがのぞましい。反転や入れ替えをすることがなく、自分たちの立場を固定してしまっているので、自分たちの見解を手放せなくなり、それで折り合えなくなっている。社会学者のカール・マンハイムが言っているという、存在の被拘束性がとても強くなっているのである。それを和らげるようにすることがいる。そうしないと、政権与党だけでなく、多くの国民までが不毛なもめごとにつき合わされて巻きこまれてしまう。政権与党は、存在の被拘束性を自分たちで和らげて、自己欺まんの自尊心を相対化することがいる。