品位にいちじるしく欠けたことをされていながら、それをされた側にだけ品位を求めるのは、いささか不公平なことのような気がする(決まりはあるのかもしれないが)

 懲戒請求した一般の人を、萎縮させてしまう。弁護士の行なったことは、品位を失う非行に当たる。一般人の男性は、そうしたことで、弁護士にたいして新たに懲戒請求を行なったという。

 ブログで扇動された人たちから、四〇〇〇件にものぼる懲戒請求を弁護士の人たちは受けていた。この弁護士の人たちは、朝鮮学校補助金を交付するようにはたらきかけていたそうである。一般人から懲戒請求を受けた弁護士の人たちは、対抗措置として民事訴訟をおこすかまえを見せている。

 弁護士の人たちが対抗措置として(和解を含めた)民事訴訟をおこすかまえを見せているのは、はたして品位を失うような非行といえるのだろうか。それはちょっと的はずれであると言わざるをえない。問題をさかのぼってみると、弁護士の人たちが悪玉化されていたことがあるので、それを無視することはできない。

 弁護士の人たちが四〇〇〇件もの懲戒請求を受けていたのは、朝鮮学校への補助金の交付をはたらきかけていたことを理由としているようであり、ステレオタイプの独断と偏見によるものといえる。悪玉化や排斥(排除)の被害を弁護士の人たちはこうむることになった。この悪玉化や排除は、暴力であるのにほかならない。もっとほかの見かたも別にできるかもしれないが、一つにはこうした見かたが成り立つ。

 別の見かたとしては、弁護士の人たちに懲戒請求を行なった人たちの正義と、弁護士の人たちによる正義の二つがあり、それが対立したと見られる。どちらかの正義が完ぺきに純粋で、もう一方の正義が完ぺきに不純であるということはありえづらい。どちらも共にそれなりに不純であるだろう。

 純粋ではなく不純であるというのは、主体が純粋ではなく不純であるということである。主体は何らかの情報による影響をこうむっている。その情報による影響を少なからず受けているので、純粋な見かたをとることができない。情報の体系としての構造があり、それのにない手が主体である。

 いかにあるべきかや、いかにあるべきではないかのそれぞれの正義がある。何が正しいかというのは、目的によって異なってくるものである。神の死があり、最高価値の没落があるので、絶対に正しいということはありえづらい。一神教ではなく、さまざまな価値の多神教となる。相対としてしか正しくないのであり、誤りをおかす可びゅう性をまぬがれない。限界をもつ。現実というのは見かたによって異なるものであり、玉虫色だというのもある。

 ステレオタイプによる独断と偏見がはたらいた正義というのは危ないものである。思いこみがそうとうに強くはたらいているものである。思いこみを相対化してカッコに入れることがあるのがのぞましい。思いこんでいることが現実になるわけではないので、思いちがいとなっているところを見ることによって、修正や補正をすることができればよい。

 懲戒請求の問題では、もととなるところに、弁護士の人たちにたいする悪玉化や排除があった。それに対処しようとして、対抗措置をとったところ、それが品位を失う非行だとして、また懲戒請求を受けることになった。これでは元のもくあみである。もとにあった、弁護士の人たちにたいする悪玉化や排除が、ぐるっと一周回って同じところに返ってきただけである。何の解決にもなっていない。

 解決をするためには、言いがかりをつけることによって一部の弁護士の人たちをいたずらに悪玉化や排除してはならないし、それがあってはならないとすることがいる。じっさいにそれが大量の懲戒請求という形で行なわれたのは事実なのだから、何らかのつり合いの回復のための措置がとられることはあってよいこと(なければならない)だろう。それがなければ、不つり合いのままになるし、再発の防止が保証されづらい。品位というのを持ち出すのは、ものすごくおかしなことをしているのではないかぎりは、論点をずらしてしまうことになる。