完全に無実を証明しろなどとは誰も言っていないのだから、悪魔の証明を持ち出すのは不適切であり、論点のごまかしである

 悪魔の証明であり、無いことを証明できない。首相はそのように国会で弁明をしていた。たしかに、無いことを証明できないかもしれないが、そうであるからといって、無いことにはならない。無いことを証明したことにはなっていない。あったかもしれないというのを払しょくすることができていないのである。

 やっていないことを証明できないからといって、やっていないことにはならない。膿(うみ)を出し切るというのは、理解を進めてゆくことでもあるのだから、一つの文脈だけによらないようにしないとならない。やっていないという文脈は、首相にとって有利にはたらくものであり、自分に有利にはたらく文脈にしがみつくのはのぞましいことではない。それでは理解が進まないし、膿を出し切ることもできない。

 悪魔の証明をもち出すのは自己防衛になってしまっているものであり、自分に原因を当てはめるのを避けているものである。そうではなくて、自分に原因を当てはめることをすることがいる。状況証拠などによって、それが問われているのがあるからである。決定的な証拠がないからといって、潔白を証明することにはなっていないのだから、状況証拠に向き合うようにするのでないと不自然である。

 一般人とはちがい、政治の権力をもっている者であるのなら、決定的な証拠がないからといって完全に潔白となるとは見なしづらい。それなりに有力な状況証拠があるのなら、白だと見なすのはそうとうに苦しい。適していないものでもある。ほんとうに白だというのであれば、疑惑についての理解を進めてゆき、きちんと膿を出し切ったあとでないとならないものだろう。それが必要条件である。理解がきわめて浅く、自分たちに有利にはたらくような(自分たちは潔白だという)文脈にしがみついて、膿を出し切ってもいないのであれば、黒だと言っているようなものである。