高度プロフェッショナル制度は、人殺し法案とも言われているので、それをふまえると、不正義なものだというのがある(民を生かすようでないとならない)

 高度プロフェッショナル制度というのが、いま政権与党によって通されようとしている法案であるという。この法案を強行採決で力づくで通そうとしているとも見られている。法案についての国民からの支持は低く、六割くらいの人は反対しているという数字が出ている。

 高度プロフェッショナル制度の法案を通すために、政権与党は前提となる情報を出した。その情報がまちがったものであるのがわかったが、いぜんとして政権与党は法案を通そうとする姿勢を崩してはいない。

 国民からの法案への支持が低いのにもかかわらず、無理にでも通そうとしていると見なさざるをえない。これが意味することは、一つには、国民が求める政策と、政権与党が行なう政策とが、いちじるしくずれてしまっているのを示している。

 国民の声をすくい上げて下から帰納でやって行くのではなく、上から演繹でものごとをおし進めているのである。そのために、国民の声と、政府がやろうとしていることとが、かい離してしまう。国民がぜひやってほしいと思うことはやらずに、やってほしいとはとくに思っていないことをやる。

 与党のやることについて野党が足を引っぱっているというけど、それよりも、政権与党のやることが(またはやらないでいることが)国民の生活の阻害になってしまっているのがあるのではないか。国民は国家のための手段ではなく、国民そのものが人間として目的であるのだから、目的として尊重されるのがのぞましい。国家は、国民を手段としてあつかわないようにして、生活を阻害しないようにする。国民の基本の必要(ベーシック・ニーズ)をうまく満たせないのであれば、いったい何のための豊かさであり、何のための文明や科学技術の発展なのだろうか。

 構造(structure)として見ると、高度プロフェッショナル制度の法案は、欠陥をきたしてしまっているものだろう。土台となる前提の情報がまちがっているのだから、主張の説得性はゼロとなるとしてもまちがいではない。現実に何かの問題があり、それを何とかするための法案(高度プロフェッショナル制度)だというのならわかるが、その法案そのものに大きな問題がある。現実にある問題が何とかなるどころか、ますますひどくなってしまいかねない。

 高度プロフェッショナル制度のほかに、森◯学園や加◯学園の問題もふくめて、政権与党は構造についての視点をもつことがいるのではないか。構造としておかしいのにもかかわらず、きちんとした論拠に支えられていない主張をしてしまっているのがある。現実にある問題や、とり沙汰されていることがらを何とかするためには、原則を無視してしまうようではまずい。

 原則として、構造のいちばん下の土台となるものである事実をまずは認めなければならない。事実が何かを認定するので意見が食いちがうこともあるけど、事実をかたくなに否認してしまうのはまずい。動く事実については置いておくとしても、動かない事実については少なくとも素直に認めなければならない。そうしないと、構造の視点をとることにならないので、主張に説得性をもたせることができづらい。政権与党の言うことに立体性がなくなり、空虚に響く。与野党のあいだで話し合いのとっかかりすら持てずに、たんなる水かけ論のやりとりとなり、詭弁と強弁が(政権与党によって)用いられる。これでは道理が引っこんでしまわざるをえない。