朝鮮学校への補助金の交付には是非があるのだとしても、交付を求めることを犯罪行為だとするのは飛躍がありすぎる(歴史の文脈からいっても単純な見かたはできないはずである)

 朝鮮学校補助金交付を求める弁護士の人たちがいる。その人たちのやっていることは犯罪行為であるとして、懲戒請求を行なう。インターネットで賛同をつのり、集団によって大量に行なわれたものだという。

 何でも、余命三年というブログがこの請求を(ブログを)見ている人たちに呼びかけることで、大量の請求が行なわれたそうだ。請求を行なった人たちにたいして、弁護士の人たちは法的な訴えをおこすかまえだという。

 懲戒請求を行なったのは、犯罪行為をしているからだということだけど、そもそも(弁護士の人たちの行ないを)犯罪行為であると決めつけてしまうのはまずい。有罪推定の前提に立ってしまっている。弁護士の人たちは政治の権力者ではないのだから、有罪推定の前提で見てしまうのは適したことではないだろう。かりに犯罪行為が疑われるのだとしても、犯罪行為だと断定するのではなく、犯罪行為なのではないか(犯罪行為的なのではないか)、と問いかけるくらいならまだしも穏当だ。それであってもまずいかもしれないが。

 弁護士は一般市民をいたずらにおどすべきではないという意見もあるけど、この意見にはうなずくことができづらい。原則としては、弁護士は一般市民をおどすべきではないかもしれないが、いついかなるさいにもというわけではないだろう。例外として、一般市民がきわめて悪質な大衆であるのだとすれば、抑制的に法的な対処をするのがまちがいとは言えそうにない。それをするべきではないというのは、大衆迎合(ポピュリズム)だろう。

 大衆すなわち善だとか正しいとは言えないものである。一部の大衆が独断の正義(大義)によって暴走するのはそうとうに危ないことである。単独の個人なのであればまだしも、複数の個人からなる集団なのであるのなら、そこには集団心理がはたらく。党派になることで、脱抑制になり、判断が狂うことがある。理性による抑制は必ずしもきかない。なので、大衆(群衆)すなわち善とか正しいとは言いづらくなる。悪と決めつけることはできないが。

 表現の自由は権利としてとても大切なものではあるけど、ブログで民族差別をあおってしまうのはいかがなものだろうか。それにくわえて陰謀理論を持ち出してしまうと、なおさらやっかいなことになる。公共の福祉に反するようになりかねない。

 朝鮮学校補助金を求める弁護士を、反日であるとして、懲戒請求を行なうことになったのだろう。反日と見なすことで、懲戒請求を行なうにいたったのだとすると、そこにはステレオタイプの認知の歪みがはたらいている。なるべくステレオタイプの見かたにならないようにできればよいけど、それにおちいってしまうと、危ないことにつながってしまうのがある。

 ステレオタイプの見かたから、懲戒請求という意思決定なり判断なりをすることになった。あとからふり返って、この意思決定や判断およびそこからの行動が、誤りだったということであれば、意思決定や判断をするのに待ったをかけられればよかったのだろう。待ったをかけられなかったのは、確証の認知の歪みがはたらいていたためだと察せられる。確証をもつことによって、適していない意思決定や判断がとられたのである。

 確証をもつことになったのは、ブログへのハロー(後光)効果がはたらいていることにもよっているかもしれない。後光がさすかのようにして、ブログからの指示や示唆にそのまま従うようにしたということである。ハロー効果は認知の歪みをうながすものであるため、あとからふり返ってみてまちがったことをしてしまったというふうになる。すべての人が誤りだったとふり返るのではなくて、あくまでもまちがってはいないのだとする人も中にはいるかもしれない。

 意思決定や判断をするさいには、なるべくあとからふり返って誤りだったとはならないようにしたいものである。そのためには、あるブログに書かれていることだからまちがいはないとしてあがめるのではないようにしたい。あがめてしまうと、大に事(つか)えるものである事大主義になってしまう。また、中華思想のようにして、日本を中華であるとはしないようにしたいものだ。日本を中華としてしまうと、ほかの国や民族がそれよりも不当に下に位置づけられてしまう。民族差別につながってしまうものだから、それをとらないようにできればのぞましい。