孤島ではいられないというのがあるから、外との交流をすることはいるのであり、それ無しですませられるとするのなら非現実と言えそうだ

 日本は蚊帳の外でもかまわない。むしろそのほうがよい。蚊帳の内にいないで、その外で日本の独自のよいものを生み出して行く。日本は自力の強さをもつことがのぞましい。そうした意見が言われていた。

 蚊帳の外というのは何だろうかというと、一つには疎外であるということができそうだ。疎外というのは狂気にもつながりかねないものであり、危ないものである。必ずしも否定的なものであるとは言い切れないが、一つの文脈としては負の価値をもつものだと見なせる。それを正の価値であるとしてしまうと、戦前のように、(国際連盟から脱退したときの)わが代表堂々退陣す、みたいなふうに、開き直ってしまい、孤立する悪い方向へ進んでいってしまいかねない。

 蚊帳の外にいてもよいのだというのもできないではないが、それに甘んじてしまってよいものとは必ずしも見なせそうにない。そうなってしまうのは、日本の国としての認知の歪みがはたらいていたり、自己欺まんの自尊心がはたらいていたり、現実を誤認していたりすることによるものだろう。これはもっぱら政権与党によるものである。日本の外交が必ずしもうまくいっていないのは、政権が反知性主義であるからだと、評論家の佐藤優氏は言っている。

 蚊帳の外でもかまわないのであり、そこで日本の独自のよいものを生み出したり、自力の強さを身につけていったりする。そうしたことができればよいけど、どうもできるとは見なせそうにない。蚊帳の外でもかまわないというのなら、蚊帳の外に置かれるつらさや苦しさに寄りそうようにしたらどうだろう。国内においても、蚊帳の外に置かれてしまっている人は少なくない。そういう人たちを自己責任であるとして切り捨ててしまっているような気がしてならない。そうした現状があるとするのなら、蚊帳の外でもかまわないというのは、(厳しく言えば)寝ごとのようなものなのではないかという気もする。

 日本という国は、それが実体としてあるというよりは、共同幻想によるものであり、独立して単独であるものではない。ほかの国などとの関係のうえではじめて成り立つものである。ほかの国との関係がないのなら日本という国もまたないものだろう。物理的には資源の乏しさなどが日本にはあるのを無視できそうにない。

 蚊帳の外でもよいのだとするのはわからないではないし、それが絶対にまちがっているというのではないだろう。そうではあるけど、個人的には、できるだけ(もし蚊帳の外にいるのであれば)蚊帳の外にいるのから脱して、蚊帳の中に入れるようにできればのぞましい。国内においても、蚊帳の外に置かれてしまっている人や集団を、蚊帳の中に入れられるようにできればよい。包摂できるようにする。そうしたことが簡単にできるとは見なすことができないのがある。

 変化がしやすいような可塑(かそ)ということや、柔軟性をもってことに当たることが、日本の社会や政権与党にはいちじるしく欠けてしまっていると言わざるをえない。あくまでも個人の意見にすぎないが、可塑性や柔軟性が低いのがある。それらが低いのはのぞましいことではない。そこにさらに連帯(友愛)がもてないのが加わり、人によっては希望がなかなか見えず、光が差しづらい。人間の安全保障(human security)が軽んじられてしまっている。蚊帳の外でよいのだとするにしても、硬直して固定したあり方では、そこで日本の独自のよいものをつくり出すことはできないだろうし、自力の強さをもつことものぞみづらい。