野党の質問者にやじを飛ばしている場合ではないだろう

 自分がしゃべりたいんだよ、この人は。国会の野党の質問者に、副総理はこうしたやじを飛ばしたそうだ。たしかに、野党の質問者は、自分がしゃべりたいことを語っているようにも見うけられる。しかし、そうさせてしまっているのは、副総理や(副総理のとなりに座っている)首相を含めた政権与党のあり方のせいによるのが大きい。

 副総理や首相を含めた政権与党は、国会で野党から聞かれたことにきちんと答えていない。答えるときに、聞かれたこととは関係のないことをしゃべったり、個人の演説をはじめてしまったり、まるで要領を得ないことを語ったりしている。政権与党がこのようなていたらくであるから、野党の質問者は自分がしゃべりたいことを言うのを一つの手としてとらざるをえない。それにたいして副総理はやじを飛ばしたわけだけど、このやじは的はずれなものだと言わなくてはならない。

 政権与党に向けられた疑惑はまだぜんぜん解決していないし、整理すらされていないのだから、疑惑の解明にとり組む時間や労力をもっとかけてよいくらいだ。野党から指摘される前に、自分たちから自主的にすすんで説明するくらいでちょうどよい。おざなりな説明では駄目であり、いちばん納得していない人たちを納得させられるくらいにまで言葉を十分に尽くすことがあるのがのぞましい。

 いまのところ、疑惑の当事者である政権与党の説明は不十分すぎていて、まったくといってよいほど足りていない。そのために疑惑についてきちんと整理されていないので、とり散らかってしまっていて、わけが分からず、ちんぷんかんぷんになっている。子ども(大きい子ども)がおもちゃ箱をぶちまけたようになってしまっている。体系でとらえられていないためだ。公のことがらは、遊びではないし、いちおうは大人なのだから、きちんと自分たちで責任をもって最後まで片づけるべきである。当事者ではない人(野党など)に片づけさせるのはおかしい。

 与党のやることについて、野党が引っかき回しているのがいけないのだ、という見かたもできるだろう。その見かたもとれないではないけど、それとは別に、疑惑の出発点となっているものが何かを見ることができる。

 絶対のというのではないが、一つの出発点としては、首相に近しい人に便益をはかったのではないかというのがある。便益をはかられた学園の経営者が、首相と個人的なつき合いのある人であり、友だちだったというのが出発点にある。なので、利益相反の疑いをもたれてもしかたがないのである。

 疑いをもつのがむしろ自然なのであり、それを払しょくしたいのなら、おかしいことはないということを立証する責任は政権与党にある。おかしくはないことを、過程や手つづきの正しさによって客観として厳密に立証しなければならないのであり、それがきちんとできないのであれば、疑ってくださいと言っているようなものである。プラスでもなく、プラスマイナスゼロでもなく、(友だちづき合いがあったという)マイナスから出発しているのだから、ふつうのとき以上に適正な手つづきや過程をふまないとならない。そのマイナス(マイナス足すマイナス)をそのままにしておいて、おかしいことはないというのは、力づくでもないかぎりは通らないだろう。

 マイナスなのは政権与党ではなく、野党のやっていることがマイナスなのだという見かたも成り立つ。与党の足を引っぱっているということで、野党がマイナスなのだということである。はたして、野党はマイナスであり、与党はプラスなのだろうかと、改めて見ることができる。

 与党がプラスであるのなら、正しい純粋な動機による正義でものごとをすすめていることになる。じっさいに与党はそうした弁明をしている。この弁明をそのままうのみにはできそうにない。もしうのみにするのなら、出発点として与党はプラスだったことになるが、そうではなくて、出発点として与党はマイナスだったと見てみたい。はじめにマイナスだったのが、さらにそこにマイナスが積み重なって今にいたっている。犠牲者まで出てしまっている。

 中立公正で、すべての国民にとって益になるのならプラスだと見られる。たんに中立公正だというのならプラスマイナスゼロだろう。そのどちらでもなく、首相に近しい人に便益をはかったおそれがきわめて高いのだから、偏っているのであり、出発点は(大きな)マイナスだったのではないだろうか。マイナスであるものをプラスであると見せかけたとしても、プラスに変わるわけではないだろう。