無謬と可謬のちがいは小さくないから、無謬ではなく可謬にするのがのぞましい(合理性を限定する)

 膿(うみ)を出し切る。そのためには、無びゅうのあり方をやめることがいる。政権与党は、自分たちを無びゅうであるとして、誤りのまったくないものだとしないようにせねばならない。自分たちを無びゅうだとすると、神話(ミュトス)になる。

 無びゅうではなくて、可びゅうであるというようにする。誤りがあるものだとする。その誤りを認めるようにしないとならない。政権与党は、これまでに無びゅうの神話でやってきたのであり、いまでもそれにしがみついてしまっている。膿を出し切ると言いながら、無びゅうの神話を手放そうとはしていない。

 無びゅうの神話は、誤りがないものとして自分たち(政権与党)を仕立て上げることである。この仕立て上げるのは虚偽である。虚偽のあり方をとることで、現実といちじるしい隔たりができてしまう。隔たりが大きくなりすぎてしまっている。

 無びゅうの神話は、自分たちを絶対とするものである。一点の曇りもないとする。一点であっても曇りを認めようとしない。じっさいには、一点くらいは曇りはあるものなのだから、一点くらいは曇りを認めてもよいものだろう。一点すらも曇りを認めないという癖を改めて、曇りは曇りとして認めてゆく。そうしないと、一方的なあり方が正されない。

 無びゅうの神話をとらないようにすることで、絶対ではなく相対にすることができる。絶対のあり方だと、(自分たちに都合の悪い)否定の契機が隠ぺいされて抹消される。隠ぺいされて抹消されたものが膿であり、それを出し切って行かないとならない。ほんとうに膿を出し切るつもりがないのであれば、隠ぺいされて抹消されたままとなる。しかし状況証拠は少なからず残っているのだから、隠しつづけるのには無理がある。無理があるからこそ膿を出し切るのがいるのであり、そのためには無びゅうから可びゅうに転換して、自分たちをずらして行くことがいる。ずらして行くのは、自分たちをのぞましいものとして仕立て上げないようにすることである。