総理と言うか首相と言うかは、まるでどうでもよいことなのだから、総理と言って首相とは言わないというへんてこな決まりはまちがいなく守られているわけがない(守られているとは見なせない)

 総理とは言っても、首相とは言わない。官邸や政府では、そのようにしているという説が言われている。国会に参考人として呼ばれた首相秘書官も、自分は総理とは言うが首相とは言わないと述べていた。

 総理とは言うけど、首相とは言わない、というのは一体どういうことなのだろう。総理と言うけど首相とは言わないというのは、原則論としてそうだということなのだろうか。そうだとすれば、原則には例外がつきものなので、例外として首相と言うことは十分にあることだ。

 そもそも、総理とは言うけど首相とは言わないというのは、とるに足らない話である。どうでもよいことであり、くだらないことである。どちらで呼んでも変わりがないのであり、実質としては何の差もない。変な形式にこだわっているだけだと映る。小さな形式にこだわっているのは、(一国の長にふさわしい)器が大きい人物だとは見なせそうにない。

 官邸や政府では、総理とは言うけど首相とは言わないということだけど、これをうら返せば、官邸や政府だけでそう言っているというのをあらわす。官邸や政府ではないところでは、総理とも言うし首相とも言う。どちらも使っている。官邸や政府と、それ以外とでは、あり方が異なっている。統一されていない。統一されていないというのは、官邸や政府のあり方に説得性がないということをあらわす。もし説得性があれば、官邸や政府の外にひろく広まるはずであり、統一されることになるだろう。

 総理と首相は、それぞれ同じものをさすが、語感がちがう。総理と言うよりも首相と言ったほうが語感としてそぐうことはあるだろう。語感として首相という言葉を選んで口にすることはないことではない。総理とは言って首相とは言わないというのは人為の不自然さがある。自然な語感や文脈の流れとして口から出ることがないとするのはおかしなことだ。

 総理と言うけど首相とは言わないのは、安倍晋三首相が総理と言われるのを好み、首相と言われるのを嫌うことから来ているものだという。安倍首相は、自分の好みを周りに押しつけているのである。周りの者はよい迷惑なのではないだろうか。周りの者からすれば、たとえ不合理なことであっても、安倍首相の気分がよくなることがよいことなのかもしれないが。

 総理と言うのは、安倍首相のとり巻きの人たちにとっては義務みたいなものかもしれない。この義務というのは、すごくいい加減なものであり、たんに安倍首相が好んでいるというだけのことであり、とくに意味のあることではない。なので、義務といっても努力義務のようなものであるし、絶対に守られているものとも言えそうにない。いついかなるさいにも総理と言うとは見なせないし、どんなときにも必然として総理と言うとも見なせないものである。可能性として首相と言うことは十分にあることだ。ふだんから首相とは言わないのだから、首相案件とは言っていないという首相秘書官の弁明は、日本語話者として苦しいものであり、小学生のような言い訳だ(小学生に失礼なくらいだ)。