NHK に属する出演者が、番組の中で、よい独裁もあるということを言うのは、個人的には許容することができない(悪い独裁の危険性を言うべきだろう)

 よい独裁もある。NHK に属する出演者が番組の中でそのように言ったという。この発言にはちょっと驚いてしまった。思わず椅子から転げ落ちてしまうといったような感じである。

 たしかに、よい独裁があるというのはまちがってはいないものだろう。よい独裁はないことはない。想定としてはそう言えるかもしれないが、独裁がよいということにはならない。独裁はよくないものなのだということができる。

 よい独裁があるというのは、実質としてのことを言っているものであり、形式はまた別にあるものである。独裁は形式の合理性を欠いているのだから、形式としてはまちがっているということができる。形式としては独裁は肯定されるものではない。

 形式をすっ飛ばして、いきなり実質をとってしまう。それが、よい独裁もあるということである。そうであるのだから、いきなり実質をとってしまうのではなくて、形式をふむようにしないとならない。形式として非合理にならないようにすることがいる。形式の合理性を満たしたうえで、実質をよくして行くようにする。

 形式などどうでもよくて、実質こそが大事なのだ、ということもできないではない。そう言うこともできないではないけど、これに反論することができる。よい独裁もあるというのは、一面の見かたとなっているのをまぬがれるものではない。多面で見てよい独裁だということは言えないものである。悪い独裁ではないというのを完全に否定することができるものではない。

 よい独裁というのは、どこからどう見てもまちがいなくよい独裁だというのを意味しない。客観ではないということである。主観になってしまうものである。よいかどうかはともかくとして、独裁であるというのがじっさいのところである。よいというのは主観であり、カッコの中に入れざるをえない。

 よい独裁ということの、よいというのをとり外すことになり、独裁ということになる。独裁をとるのがいるのかどうかは、目的ではなく手段の話である。手段として独裁をとるのは必然であるとはいえない。独裁を手段としてとる必然性はないのだから、独裁であることは必ずしもいらないものである。必ずしも独裁でなくてもよいのだから、民主主義であってもかまわないはずだ。

 民主主義であったとしても、独裁に転落してしまうことがあるから、注意していなくてはならない。よい独裁もあるというのだとしても、それは民主主義の中では、独裁に転落してしまっているのだと見ることができる。独裁に転落してしまってもかまわないということはできづらく、民主主義が失敗してしまっていると言わざるをえない。独裁でなければならないということはないのだから、民主主義が失敗して独裁になってしまわないようにしたほうがよい。民主主義を否定することで独裁におちいってしまわないようにして、民主主義をできるだけよい方にもっていったほうがのぞましいだろう。簡単ではないかもしれないが。