かりに自分の記憶力に自信があるのだとしても、メモを残しておくに越したことはないのだから、忘れるのに備えてメモに残しておくのはおかしいことではないし、価値がないものではない

 メモをとっていない側の言い分のほうが、メモに記されていることよりも正しい。国会に参考人として呼ばれた首相秘書官は、このようなことを言う。首相秘書官のこの言い分には疑問を投げかけざるをえない。

 首相秘書官は、メモに記されていることよりも、メモをとっていない自分の言い分のほうが正しいという。じっさいにこのように言ったのではなくて、じっさいには、(メモをとっていない側の言い分よりも)メモに記されていることが必ず正しいというのはおかしいとしている。

 メモというのは愛媛県の職員が記したものであるという。愛媛県知事は、(メモのことを否定した)首相秘書官は本当のことを語っていないと言っている。職員がきちんととったメモなのだから、まちがった内容のものではないということだ。

 たしかに、首相秘書官が言うように、メモに記されていることが必ず正しいということにはならないのはある。そうであるからといって、メモのことを否定すれば、(メモをとっていない側である)首相秘書官の言い分が正しくなるわけではない。

 なぜメモを作成したかというと、そのときにあったことをあとで忘れないようにするためだろう。その動機があるのだから、メモのことを頭からは否定できないはずである。はめるためだとかおとしいれるためにメモを作ったのだとするのは陰謀理論を持ち出すことであり、これを持ち出してしまうと建設的な議論ができづらい。

 備忘録としてメモが作られたのだとすると、メモの内容はあるていどは信用できるものだろう。少なくとも、首相秘書官が今になって急に記憶を思い出したり、または都合よく忘れたりするのよりはよほど信用ができる。いったいに記憶というのはそこまであてになるものではなく、とりわけ政治権力に近い人の記憶は(一般人よりも)なおさらあてになるとは見なしづらい。あやふやさがつきまとう。

 記憶というのは、今になって、そのときにあったことを思い出すものである。時間が経ってしまっているのだから、短期記憶(作業記憶)として頭の中から忘れ去られてしまったことも少なくないのにちがいない。長期記憶として正しく残っているかどうかは定かではない。

 かりに首相秘書官がそのときにあったことを今でも記憶していて、その記憶していることが、メモに記されていることと食い違っているとする。この食い違いがあるときに、首相秘書官の記憶のほうが、メモに記されていることよりも正しいとは言い切れない。人間には記憶ちがいというのがあるからだ。記憶ちがいであるのを正しく記憶していると思いこんでいるだけにすぎないことがある。なのでそこまで信用はできない。

 メモに記されていることが必ず正しいわけではないのはある。そのうえで、メモをつくるのは、記憶として思いおこすこととはちがう。記憶として思いおこすのは、時間が経ってしまったものを頭の中でふり返ることであり、時間が経ってしまったというのが大きく影響する。時間が経たないうちに、そのときにあったことを、そのときのうちに記しておくのがメモだ。できごとの最中かすぐ直後に記したのがメモなのだから(そうであるはずだから)、それなりの客観性はあるものだろう。

 メモの内容が故意にでっち上げているものであるのなら話はまたちがってきてしまう。たんにでっち上げだろうと見なすのは、言いがかりにすぎないものだから、メモに記されている内容をくつがえす根拠としてははなはだ弱い。首相秘書官は権力に近い立ち場にいるのだから、説明責任を負っているのであり、メモのことを否定しただけでは説明責任をきちんと果たしたことにはならない。自分が覚えているかぎりのことを自主的にすべて語ったらどうだろう。記憶力に乏しくて、それほどできごとを覚えていないというのであれば、メモのことを否定するのはちょっとおこがましいことだ。