自然現象ではないのだから、ありえるということですませてしまってよいものとは見なしがたい(信頼の失墜であり暴落である)

 どの組織でも改ざんはありえる。省庁にかぎらず、会社などでもおきることである。財務相はそのように言っていた。改ざんは組織というよりは個人によるものであるとしている。

 財務相が言っているのは、改ざんに問題が無いとするのに等しい。修辞(レトリック)を用いることで問題を拡大(希釈)してしまっている。改ざんはどこでもありえることだとしているけど、公文書はどこでもあつかっているものではないだろう。公文書をあつかっているのは、公的な政治にたずさわるところに限られるものである。

 公文書の改ざんは犯罪なのであり、それをしたのかしなかったのかは、わずかなちがいなのではなく大きなちがいである。犯罪が行なわれたのであれば、大ごとだと見なさなければならない。軽いことであるとするのであれば、軽はずみで改ざんを行なうことを誘発してしまいかねない。

 改ざんについて価値判断をするときに、自分が財務大臣であるという立ち場をはずして見なければならないのがある。立ち場をはずさないと、身びいきの見かたになってしまいかねない。身びいきの見かたをするのだと、特殊な見かたになり、偏ってしまう。多くの人を納得させることはできなくなる。

 自分が財務大臣であるときと、その立ち場ではない野党のときとで、同じことを言うのでないと、一貫性がないし、説得性が低い。非一貫的な発言になってしまっている。法を重んじるのにおいては、非一貫的なのではなく一貫したものであるのがのぞましいものだろう。自分が財務大臣であるときにかぎり、特殊的に甘い見かたになるというのでは、法を重んじることになっていないので、全体の利益をいちじるしく損なう。公平性を欠く。

 公文書の改ざんという政治の犯罪があったのかなかったのかをはっきりとさせることがいる。それをはっきりとさせるのは、それがもしあったとしたら(見すごすことができない)危機であるからなのが一つにはある。重大で深刻な危機なのだから、それを解決するためにきちんと対応しなければならない。財務大臣がもし野党の立ち場であれば、省庁による公文書の改ざんに甘い見かたをしないはずである。自由主義からすると、立ち場を入れ替えてみたときに同じことが言えなければならない。