セクハラ罪がないのであれば、むしろ(だったら)省としてもっと時間と労力をかけて調査をして、真相がどうだったのかを十分に見て行き、セクハラがあったのかどうかをはっきりとさせるようにしたらどうだろう

 セクハラ罪という罪はない。セクハラは殺人や強制わいせつとはちがう。財務相はそのように述べているという。たしかに、言われてみれば、セクハラ罪という罪はないのはある。しかし、セクハラ罪という罪がないのなら、セクハラをやり放題でよいわけではないだろうし、セクハラを殺人や強制わいせつと比べるのは、比べる対象が極端でありおかしい。

 セクハラ罪という罪はないのは、セクハラに罪はないのと同じではないものだろう。セクハラに罪はないのなら、セクハラに罪はないと言えばよい。そう言うのではなくて、セクハラ罪という罪はないと言うのなら、セクハラ罪という罪はないけど、セクハラには罪があるということもできる。

 セクハラをどうしてもしなければならないというのは考えづらいので、その必要性があるとは見なしづらい。必要性がとくにないのにもかかわらずセクハラをするのであれば、それを受け入れることはできないものである。ほんの少しくらいであればともかくとして、明らかなものだったり、常態化していたり、度を超えたものだったりすれば、セクハラが自明となってしまいかねない。

 セクハラにたいしての認識は、それをする方とされる方とでは、ちがった認識のしかたになる。セクハラをする方は、セクハラをすることで自分が不快になるわけではない。される方は、セクハラをされることでいちじるしい不快や被害をこうむることがある。セクハラかどうかを決めるのは、する方ではなくてされる方なのがあるので、される方の言い分が重みをもつ。

 セクハラをされる方の言い分が重みをもつというのは、一つの文脈であり、それがすべてではない。別の文脈もあることはたしかだけど、される方の言い分に重みをつけるという文脈は無視することができないものである。そこにできるだけの寛容さをもつことはいるものだろう。あるていどの確かさの証拠があるものについて、寛容さをもたないようにしてしまうと、閉じてしまうことになり、対等にならなくなってしまう。対等でないのは、セクハラを生んでしまう土壌となりかねないものであり、助長してしまいかねないものである。