選挙によって選ばれるのだけが政治ではないだろう(選挙によって選ばれることによる政治には、それ特有の力学がはたらいてしまうのがいなめない)

 デモをやるよりも選挙のほうが大事である。デモをするよりかは、選挙のときに何ができるのかをとるほうがよい。テレビ番組で出演者の人がこうしたことを言っていた。デモでは社会は変わらないとして、デモに否定的な見かたを投げかけている。

 デモよりも選挙をとるべきだということだけど、この意見にはちょっと賛同できないという感をいだいた。デモも選挙もどちらも大いにやったらよいというのがある。民主主義のチャンネルを選挙の一つにしぼることはなく、デモもとても大事な意思を示すチャンネルの一つである。

 選挙は制度であり形式であり、デモはそれとは別の実質であると分けられるかもしれない。この二つの分け方は、必ずしも正しいものではないかもしれないが、形式が実質をきちんとくみとっていないために、形式は形式となり、実質は実質として、分かれてしまっているのがある。

 選挙は形式であり、それが大事だというのはできるけど、それを重んじすぎると、実質が少なからず変質してしまうのがある。選挙で選ばれるのは国民の代理であり、間接の民意が示される。直接の民意ではない。ここにずれがおきるのであり、そのずれがいちじるしく高まってしまうことで、実質とのかい離によってデモがおきる。デモによって言われることが民意のすべてではないだろうけど、貴重な一部ではあるだろう。

 いくら形式の制度であるとはいっても、選挙はとても大切なものであるのはまちがいがない。選挙の結果を尊重して、正当さを認めることはいるものである。そうはいっても、選挙はもれなくすべて正しいのだとかすばらしいのだとは言えそうにない。選挙(の過程と結果)の範ちゅうの中にも色々な価値がある。選挙の過程と結果を、すべてよいものだとして単純化や一般化はできそうにない。

 選挙を尊重するのはいるけど、それによって選ばれた多数派が横暴をはたらかせているのであれば、声を上げることはいるだろう。そこで声を上げないのは、多数派をよしとしているものであり、それはそれで駄目だというわけではないけど、その一方で、多数派のあり方がよいことにはならない。多数派が横暴をはたらかせているのであれば、それは民主主義ではなく専制や独裁に変質してしまっているのにほかならない。民主主義の選挙によっているからといって、専制や独裁に転化しない保証はない。過去の歴史の実例にもそれは示されている。

 デモの範ちゅうの中にも、さまざまな価値のものがある。すごくよい価値のものも中にはあるものだろう。とはいっても、それは人によって評価がちがってくるものではある。評価はまちまちであるものだけど、性急に単純化や一般化をするのには待ったをかけられればよい。

 デモによって意見をあらわすのは、それがしぶしぶ許されているというものではなく、れっきとした権利の一つである。大目に見られていてしかたなく許されているものではない。表現の権利の行使として、もっとしきいが低くなり、盛んに行なわれればよい。それによって民主主義が活発になって行くのではないか。それで活発になれば、必ずしもデモで社会は変わらないとは言えなくなってくる。にわとりと卵ではないけど、社会が変わらないからデモをやらないというのではなく、少しでも変わるかもしれないということでデモをやるのは、それほどおかしなこととは言えそうにない。