問題の軽重としては、軽いと見ることもできなくはないが、重いと見ることもできる(重いとして見るのがまちがっているとは必ずしも言えないものである)

 野党はいつまでも森友や加計学園の問題をやっている。討論を行なうテレビ番組で、参加者の人がそう言っていた。これにたいして、別の参加者の人は、野党がいつまでも問題を引きのばしているのではないとする。与党が嘘をつかなければとっくに片づいていることであるという。

 森友や加計学園の問題は、与党にとってはやりたくないことであり、ずるずると片づけるのを引きのばしつづけてしまっている。ずるずると引きのばしつづけて、時間が経つうちにうやむやにしてしまおうという魂胆が透けて見える。そうは長くは人々の関心は持続しないだろうとの思わくだ。

 時間が経つことによってうやむやにしようというのを、そうはさせないとするのが(一部の)野党であるけど、それはのぞましいことなのだろうか。のぞましくないというふうにも見られるし、のぞましいというふうに見ることもできる。かりにのぞましいと見るとすると、義務論と帰結主義の二つから見ることができそうだ。

 義務論からいうと、たとえほかにもっと大事なことがあるのだとしても、そういった大事なことがほかにあるからというのを理由にして、森友や加計学園の問題をいい加減にすませてよいことにはならない。与党や省庁に疑惑がかけられていることにたいして、それをできるだけみなが納得できるような説明を十分にするように努めることがいる。

 疑惑にたいする説明は、形だけ時間をかければよいものではなく、実質としてなるべくみなの腑に落ちるものでないとならない。腑に落ちるような説明を与党がするのにはほとんど期待はできないけど、だからといってやらないでよいことにはなりづらい。きちんとした説明を与党に期待してもしようがないというのはたしかにあり、またほかにもっと大事なことがあるのもたしかだけど、義務を果たすのを求めることはいるだろう。任意ではなく必須として疑惑についての十分な説明と解明に努める義務を果たすことを求めたい。

 帰結主義からいうと、疑惑の中には、公文書の改ざんや虚偽答弁があり、これらは政治の根幹を揺るがしてしまうような大きなことがらであるので、そのままにしてしまいうやむやにすましてよいものとは見なしづらい。きっちりとかたをつけることがいるものだろう。もし時間が経つうちにうやむやになってしまうのであれば、帰結からいってきわめてまずい結果をまねいてしまうと見ることができる。きちんと事実や原因の解明もせずに、ふみこんだ問題の解決がされないままにすまされてしまう。悪い前例をつくってしまうのだから、同じことがまたおきてしまいかねない。

 義務論と帰結主義からいっても、与党は森友と加計学園の疑惑にきちんとまともに時間と労力をさいてとり組むべきだといえそうだ。そう言うのだとして、義務論としてはともかく、帰結主義からいうと、別のことも言えるのはあるかもしれない。見かたによっては、森友と加計学園に大きな力を注ぐのではなくて、それらはそこそこにしておいて、別のことに大きな力を注いだほうがよい、という見かたも成り立つのはあるかもしれない。