テレビ番組の放映のあり方を構造として批判するのがあればよさそうだ(BPO の正気さを問うのは、まったく正気でないということはないだろうから、あまり有益ではないような気がする)

 放送倫理・番組向上機構(BPO)は、善悪や正邪の判断ができるのか。それができるとは言いがたい。その理由として、BPO は極端に偏った組織であり、反日や左翼であるためだという。

 倫理とは、善悪や正邪の普遍の判断をすることであり、BPO にはそれができるとは見なしづらいという意見が言われている。BPO は自分たちなりの倫理を持っているのがあるだろうから、おそらく善悪や正邪の普遍(建て前)の判断ができないことはない。

 BPO を批判するとなると、BPO による普遍の判断とはまたちがった普遍の判断を持ち出すことになる。どちらか一方だけが普遍の判断ができるというのではなくて、どちらもできるか、またはどちらも限定的にしかできないということになると見なせる。どちらかだけが完ぺきな判断ができるというわけではない。

 BPO を対人論法として批判するのはどうなのだろう。極端に偏った組織だとか、反日や左翼だとかいうのは、言いがかりとして響く。極端に偏っているか、またはまったく偏っていないかというのは、極端な見かたである。多かれ少なかれ、組織であれ人であれ、まったく偏っていないことは少なく、たいていは偏りがあるものである。ていどのちがいにすぎないことが多い。

 BPO を批判するのではなくて、その判断の内容を批判すればよいのがある。判断の内容のここがおかしいというふうに具体として批判することによって議論をすることができる。判断と判断で討論をすればよい。限定的に正しいかまちがっているかということになる。

 反日や左翼だというふうに BPO を見てしまうと、属性で見ることになる。属性で見るのは、現実のあり方を見ることの妨げとなることがある。じっさいに反日や左翼というのが手で触れるものとしてあるのではないので、非現実であり非実在のものだということができる。属性であるにすぎないものであり、人為でつくり上げられているにすぎないものである。

 テレビ番組の内容が、できるだけきちんとした事実にもとづいて放映されていればそれでよい。それが目に見えてできていないのであれば、BPO から批判を投げかけられてもしかたがないものだろう。批判を投げかけられるのにたいして、BPO が極端に偏った組織だとか、反日や左翼だとかというので返すのだと、論点がずれてしまう。

 番組の内容に、不正確なところがなるべくないようにできればよい。反日や左翼だから番組が極端に偏るだとか、判断がおかしくなるとか、そういったことは決めつけにすぎず、現実にそうだとは見なしづらい。反日でも左翼でもなければ、番組が中立になるわけではなく、(それだけをもってして)判断が正確にできるわけではない。いずれにせよ中立にはできづらいものだし、判断が正しくできないことはある。何らかの価値判断をとるのは避けがたく、何をよしとするのかはさまざまであり、人によって色々な善があることはたしかである。